2015年7月24日(八段語録2483)
聖なる人格

 いよいよ戦いの場に臨みました。生命を消耗させる目的は、理想に同化させるためです。
科学者は、宇宙は力で形成され、この力によって宇宙が発生していると、通説で話しています。私は常識的に考えようとするのです。例えば、電気ですが、ただ明かりとか動力が電気で発生するのではないのです。電気が生まれる先に、力があって作用するのではないと思うのです。逆に作用を通じて電気が生ずるという事ではないかと思うのです。電気にプラスとマイナスがあって、この関係が働くから電気があるようになるのだと思うのです。だから、作用することが、大切であるという事です。今回の戦いのポイントを何処において戦うかという事です。私は、自分の持論に確信を持っているのです。作用するがゆえに、結果が生まれるという事です。大きく言うならば、宇宙は作用によって、存在しているという主張をするのです。
 まあ、そんなことはどうでもいいことですが、一人で何か存在しているという事は、無いという事を主張しているのです。私が一人で喜んで存在しているとするならば、もう気が狂った境地になっているのだと思うのです。正常でないという事ですから、いずれは破滅に至って、消滅してしまうという事です。そうなると、天地が私の体にあるという生命の刺激を感じることができなくなってしまうのではないかと思うのです。はっきり言って、一人で喜ぶことができないという事でしょう。という事は、すべてを投入したところからのみ、完全な傑作品が生まれるという事でしょう。もっというならば、これ以上投入することは、できないというという境地に至って初めて傑作品が生まれるという事です。
 今回の戦いで、私が獲得することは、あらゆる誠意を尽くして、闘いの環境の中で、獲得する心情圏なのです。一緒に戦い歩んだ人との、深い絆を求めているという事なのです。勝利を目的とした戦いですが、それ以上に、心に焼き付く互いに思いやる気持ちの投入であり、その目的の為に戦う何物でもないのです。目的を一つにして、戦う純粋な姿勢に、お互いがより力の投入をすることによって、多いなる創造を可能にするという事なのです。
 くどいようですが、結局エネルギーを投入するという事は、客観的に自分の本質の減少を意味します。でも、投入することによって、疎遠を感じるのではく、満足を感じるような歩み方をしたいというのが私の本性です。朝から活動すれば、空腹にもなります。そして間違いなく疲れます。それは、投入すると消耗するからという事です。損して喜ぶという事はあり得ません。投入していくうちに、いつかは返ってくるという希望があるから投入できるのです。今回は勝利を目指して、戦っているのです。そして勝利への道のりで、限界点を超えて、初めて、必ず結果が得られるようになっているのです。
 今日も、あらゆる事で、学ぶことが多くありました。誤解を招く表現は慎んでいかなければならないという事を、心に刻んだ日でもありました。それでも、自ら人生を通じて実践してきた、清められた人格を目指すことに対して、いささかの迷いはないのです。そして、その聖なる実践のみが、私の宝であるという気持ちを強くしたのでした。