2015年7月22日(八段語録2481)
丹田に力を入れる

 日々の生活をするのに、生命を引き換えにするような覚悟が武士道には願われます。私自身が「今日」という一日に抹殺されるようでは、大変なことになるのです。そこで、肉体を配置して、「今日」一日に負けないように鍛錬するという修養が必要になってくるのです。それだけなら、道場はいりません。それは、肉体の強さを中心とした鍛錬だけなのです。そのような鍛錬だけでは、誰もその人を尊敬するという事は無いのです。肉体を鍛錬するのは、自分の魂を育てるという事と、最終的には、尊敬される人格を造っていくという事になるのです。つまり、自分自身の体面を立てるという事です。さらに、家庭環境に、愛情と調和、そして、やさしさと慰労の雰囲気をつくることができるようにしなければならないということです。
そのような肉体を鍛えるという意味では、一つの修養の材料として、丹田を鍛えるという事も必要になってくるのです。それは本質ではありません。私の場合、肉体を鍛えるのにやってみなかったことはありません。四肢五体の全てを鍛えるという事をしなければ、両親から頂いた肉体に申し訳ないという気持ちになります。若き青春時代は、全日本に出場して、自らの何たるかを問いかけたものです。人間性の全てを投入した修養の場でなくてはならないのです。
 さて、極真空手は、日本はもとより、ヨーロッパ、アメリカ、ロシアと多くの道場生を抱えるようになりました。極真空手に熱中して、胸に極真のマークを入れる人もいるのです。なぜでしょうか。魂からの叫びなのです。ボデービルのような鍛え方では、特殊な人しか見向きもしなかったと思います。多くの道場生はもちろん、民百姓の為に、自ら努力して涙の谷間で泣くような奉仕の活動と修練をしなければ、多くの人の尊敬は得られません。極真空手をするという事は、道場生と関係を持ち、多くの地域社会の人と関係をもち、自らの精神修練によって、多くの人の喜ぶ顔を見ることによって、私の心が満足して、楽になるというような道を選択するという事です。
 ところで、丹田を鍛えるという事が重要であるかという事を尋ねられたのですが、空手は打撃が中心ですから、叩かれた場合、必要最低限度の腹の強化は必要ですが、それが本質ではないのです。「肉を切らせて骨を断つという精神」が必要なのです。基本、強くなることですが、私の場合、それ以上に精神を鍛えて、多くの道場生が我知らずに尊敬し、私の人格に絡まってくるようにならなければならないと思っています。道場生に愛情を注ぐのに、自分が無くなってはどうしようもありません。そのために、自分自身を強化するという事が必要です。それゆえに、第一段階として、四肢五体を鍛えるという入口から、精神を鍛えるというところに至らなければならないと考えます。また、多くの道場生の成長を見守る責任があるのです。それと共に、刑務所や更生施設から出所した人たちを見守っていく責任もあります。
 そのような事も含めて、肉体の鍛錬は必要です。私の場合、空手の基本である突き・蹴り、そして、精神の鍛練を道場で二時間、毎日のように修練しています。この年齢になっても、欠かさずに行のように行っています。これからが最強の奉仕活動が始まるのです。そうでなければ、人生に対して諦めがつかないのです。人生の現役はこれからという事です。質問の解答になっていないことは重々理解しつつも、今心にあることを表現してみました。