2015年7月20日(八段語録2479)
自然が教えてくれたもの

 都会の仙台で畑を耕して、自然に戯れているという事ですから、実に幸せであると思うのです。一日中畑に入って、動き回って、農地を耕すのです。自然の宝庫の畑を、耕運機で駆けずり回って、働くのですから、心と体が平安になるように感じてしまいます。畑を耕しているうちに、日が暮れて真っ暗になっても、動いている自分がいるのです。暗くなっても、心が弾んでいるので、止めようともしないのです。畑での仕事が、平和なひと時という事です。暑い夏の季節でも、畑を耕すも、平和と安らぎに通じるものがそこにあるのです。人の憎悪、憎しみ、恨みが一切ない所です。畑の中にいると、疲れた心が安らいできます。風が野菜を揺らす音、田圃でなくカエルの鳴き声といった、自然の音だけが聞こえてくるのです。もう雑念など吹き飛んでしまいます。私が畑にいるときには、自然が私の中に入ってきます。自然と私の境界がなくなって、妙に喜びに包まれます。もう私が自然になっているように思うのです。
 さて、畑仕事は、小さいころから手伝っていました。この畑の野菜達が食卓に上がるのです。かけがえのない食料でした。昔は、母と一緒に、便所の亀から人糞を汲んで、畑に運びました。汚いという事を考える暇もなかったように思います。母親が率先して、私が補佐していました。そんな姿に、近所の人も誰一人として無視したりしませんでした。どんな人でも、「大変だね」と言って応援してくれていました。野菜を隣の家に持って行って、喜んでもらった時は、とてもうれしかった思い出があるのです。そのころから、私は母の自慢の息子であったようでした。畑もそうですが、家の近くの山や野原を飛び回って、自然と融合するのが、今になって、貴重な自然から送られた、自然を愛する才能のような気がするのです。自然と接する幼少の頃があったからこそ、どんな人も受け入れて調和し、誰も無視することの無い性格ができたのかと思うのでした。
 ところで、私の子供達にも言えるのですが、最近の子供達は自然に親しむ機会すらありません。感性を教え育むと事は知識を養う事より重要であると思っています。自然を感じる心無く、感性が乾いた子供達であるならば、誰が教育したとしても、何が変わるでしょうか。せいぜい、世間に広がった知識を積み上げて、自己中心主義者になるだけという事でしょう。自然との豊かな関係を持てる人こそ、正しい人格が身に着くのではないかと思うのです。道端に咲いた一厘の花が尊いと感じる、心を磨いたほうが、よほど人として生育しているように思うのです。
 暑い畑を耕す自分に対して、このように、教育してくれた両親に感謝するのでした。今日は、昨日のゴルフの疲れが一遍現れて、午前中はゆっくりしていました。午後からは、東北電力に連絡を取って、漏電の点検をしてもらいました。まさしく漏電個所があるので、明日業者の人に直してもらう約束を取りました。我が愛車も五万キロも走ると、タイヤも疲れているという事で、ガソリンスタンドのスタッフと打ち合わせをして、なるべく安全に運転できるようにという事の相談をしました。それから、休みでもトレーニングは怠たらないようにという事で、突きと蹴りの練習を重ねました。今日一日が大切な一日という事になりました。