2015年7月18日(八段語録2477)
愛情の原点

 結構まどろっこしい表現になってしまっていますが、それでも書き続けるのが私の信条だと思っています。どのような気持ちで、この文章を書くかというならば、知的な表現、情的な表現、意欲的表現を兼ね備えて、私自身の事情に引き合わせて、書いているという事です。文学的な表現にはならないのですが、自分の願い、心情、事情という事を理解してもらえればという事を意識しているのです。土曜日の今日は、四か所の教室と、諸会議が集中していて、忙しくしていました。結構ブログでは、愛を論じることも多いのです。空手家でありながら、情緒と人格を表現しているだと思うのです。そうでないと、刺激が乏しくて、満足のいく人生など歩めないという事だと思います。
 さて、今回一緒に活動するブログの友達が、一か月間戦い抜いて、肉体の疲労の極地に至って、入院してしまいました。もう共に活動することは無いと思っていましたが、回復して復帰してきました。少し話して、「身体を大切にしましょう」と励ましました。本当に純粋な人なので、共に活動することができるということになったので、私も楽しみができました。今回も、多くの人と共有しながら、目標を達成するという事になるのです。できるだけエンジョイしながら、時間を過ごしていきたいと思うのでした。
 ところで、活動には色々な道がありますが、どんな活動でも、心を通過することができる関係が素晴らしいと思っているのです。私はどんな仕事でも、社会的倫理道徳を備えた歩みを求めるのです。一つの私の信念の骨子であると思うのです。愛情に関しても、倫理道徳を度外視して関係を持つことは、私にとって苦痛の何物でもないのです。もちろん拒否してしまいます。愛情において、お互い考え、内外の意志を備え、理想的人格を備えていこうとしなければ、乗らないのです。前提をしっかりさせて、多くの人との愛情関係を結ぶことが、私の基準になるわけです。多くの人と、尊べる関係こそが、記憶に残り、愛情を育んだという気持ちになれると思うのです。つまり、人格を認め合い愛情を中心として、情緒的関係を持つことこそ偉大であるという発想なのです。
 何もそんなに固くガードしなくても良いように思われがちですが、このようにして、倫理道徳でがんじがらめにしてきました。これが今になって結構自由なカテゴリーに入っているのです。男女関係では、決して妻を裏切らないという事を徹底しました。もちろん、妻に出会うまでも、心を正して生活したものです。時の流れに照らし合わせると、自由気ままに、勝手気ままに歩んだ人の友人の姿を見ると、この年齢になって、くっきり違いが分かるのです。私のように、自分を縛ったほうが、健康と愛情を勝ち取れるように思うに至っています。振り返って、自分の人生は、愛情に満たされた人生であったと思いたいし、充実した人生であると思いたいのです。求めるものは、生命と、愛情と、栄光という事でしょうか。
 そのような事を考えながら、自分が今日やらなければ、ならないことを整理していました。もちろん、かすかにトレーニングをする事を意識して、稽古をしようかしまいかと心で葛藤しています。サボってはいけないという良心の叫びが貫きます。そして、それに答えようとする自分があるのです。