2015年7月16日(八段語録2475)
リセット

 成熟した年齢になっても、希望を持てるという事に感謝という事です。忙しすぎて、気が付かなかったことに対しても、美しいと思える心になってきているようです。あいにく雨模様の一日ですが、それでも森羅万象に美しさが満ちているのです。根白石の畑に出かけては、その万物万象に現れている美しい風景を堪能している自分があります。今は野菜の季節が一斉に収穫の時を迎えていますので、その恵みと自然の豊かさに心が酔いしれてしまいます。今日も、千順さんと一緒に朝食をとったり、子供達の事での会話をしたり、家事の事での話たりていました。そこでの気持ちは、愛情の雰囲気を休まずに探し求めている自分があるのです。妻の年齢の年輪を刻んだ姿にも美しさを感じるのも、共に歩んできた人生であるからであると思うのでした。
 確かに、いろいろな事がハプニングのように絶えず起こりました。それでも、私達の人生が過ちと罪に染まらないようにという思いと、いつも元気で明るく、はつらつするように過ごしてきたものです。良心に忠実な心でもって、生活に現れることができるように、美しい心でありたいと思ってきたものです。極真空手の修業をするという事の意味は、心と体が、純粋な愛情でもって家族と共にありたいという事であったのです。気持ちとしては、愛情で和することができるように、完全無欠を目指す極真の修業のように思えたのでした。今までの人生は確かに苦労してきたという事が多分に多かったのです。それでも一つの目標が、一家団欒の愛情あふれる家庭であったという事なのです。これが原点で、家庭が成長してきたのかもしれません。
 ところで、振り返ってみると、人生において私が探してきたものはというならば、自らの心であり、成してきたのは紛れもない自らの体であるのです。それを生涯探し求めてきたという事なのでしょう。そして手ごたえとして、本当に美しく生きたいという事であったように思うのです。そのために、日々感謝という言葉が素直に表れ、自分が謙虚になれば、栄光に包まれるように思えたのでした。そのような気持ちにならないと、苦労が骨身にしみるだけで、何ら成果をもたらさないという事も悟ったものです。というのも、生活で家族を離れて、自分を重視するようになると、家族が崩壊するのも目に見えるように思ったものです。自分でも分からない間に、天倫を離れて、本然の心の叫びが聞こえなくなってくるのです。
 このような状態を回復できるように、本然の心の叫びを取り戻し、本心の動きでもって私の体を刺激して、自分を取り戻すようにしたいという、気気持ちが湧きいずるのです。今日も自分の生活をあらゆる邪念から解放させて、自分自身に謙虚になって、正しい心になれるように、努力する日々を送りたいという思いになります。千順さんとの愛情の確認とリセットで、さらに動き出そうとする自分があります。それは、希望を抱こうとする自分の復活なのです。心の葛藤は、愛情に飢えている自分であり、希望を抱こうと思えたのは、愛情に満たされたからという事になるのです。そのような単純な心が、自分にとって希望なのです。複雑なプリズムのような屈曲した人生観にならなかったことに感謝です。それで、純粋に今日の歩みも幸せであったと思うのでした。