2015年7月14日(八段語録2473)
初心忘れずに、

 極真を習いたての白帯の頃、先輩たちが強い存在に思ったものです。稽古が楽しくて仕方がない時期だったように思います。というのも、打撃を中心に闘うという事が新鮮で仕方がなかったのです。中学から高校にかけて、寝技、立ち技、関節技は柔道で習ってそれなりに六年間で習得していましたので、蹴りと突きに、前後のみさかえもなく、嵌ってしまったというところでした。白帯の頃は、何の技も習得していなかったのですが、それから四十数年経ってからでも、あの時が一番燃えていたようにも思うのです。
そして今、その時の情熱と比べてどうなのかと比較するのですが、答えは簡単です。やはり、燃えているのです。それも激しいものがあります。停止などしていないのです。燃える心が熱を帯びて、今にも燃え尽きてしまうような勢いという事です。強靭な肉体は今も健在です。誰にも負けない気がします。体重百キロですが、鍛えてきた体に、負けず嫌いが、否応なく付きまとってきます。
 さて、こうして修業の道を歩んできて、極真魂は傍観者として、参考にするという程度のものではないのです。気ままに人生を歩んでいたらどのようになっていたかと振り返るだけで、身もだえしてしまいます。投入したからには、目標を設定して達成するぞという意気込みになったのです。極真魂が魂という事だけであってはならないという事です。あくまでも現実化していこうとする欲求が強いのです。そうでなければ、抜け殻になってしまいます。この精神を超えているかどうかというのが、自分の判断基準という事です。私自身疲れ果てて、気力も無くなっているときも、極真魂だけは、輝いているのです。若き日の白帯の時の抱いた理想は、今も生きているのです。四十年以上経った今でも、私自身の指針になっているのであり、とても重要な項目になっているのです。一番に入門して、唱えた道場訓は、一生頭の中からこびり付いて離れることはないのです。
 ところで、白帯の初心者であった頃、極真魂の意味も知らずに、稽古をしていて、先輩達の姿が、理想でした。そして、そのようになるために、稽古を真剣にしたものです。それも気が狂ったように稽古をしたのですから、自分を造り変えたという事でしょう。肉体は、六十キロから四十キロも増えて、百キロになってしまうのですから、凄まじい修練の連続であったのだと思います。極真空手を止めようと思ったことが無いのですから、これまた異常であるとしか言えないのでしょう。この道以外に道はないという覚悟ができていたのだと思います。この道で絶対に失敗することはできないという固い決意が自分の心の支えという事です。
 今日も熱中症になりそうな天候です。気温がはるかに三十度を超えていますから、身体は重く垂れさがるように、四肢がぶら下がっているだけという事ですが、それでも、日頃の活動を、めげずに取り組むという事でした。季節は、夏本番という事でしょうか。それとも、再び梅雨に戻っていくのでしょうか。わかりませんが、私の部屋にも、エアコンを初めて入れてしまいました。千順さんと一緒に休んでいるのですが、寝苦しいようでした。それでも、明日の為にという事で、共に、熟睡です。