2015年7月13日(八段語録2472)
自然も家族

 私は、息子・娘に対しては、父親の役割として、厳しい教育をしてきました。そして、それを子供達は受け入れてくれたように思うのです。スパルタ教育のように極真空手をベースにして子育てをしてきました。もうすでに、子供達はとっくに成人をして、一人前の大人になっているのです。成長は早いし、時の流れはロケットのようでした。親から子供達に対して、いろいろと訓練したものです。その訓練についてきてくれたのもですから、感謝です。それが、親としての愛情の表現であると思ったのです。そのような意味では、どんな重荷も背負わせたような気がします。結果は、今の息子と娘たちという事ですから、反省することが多いと思っています。親子と共に歩んだ家族形成の大切な期間でしたが、親としてかなり厳しい試験を子供達に押し付けたものだと振り返ってしまいます。それでも、このような動機は、親としての愛情を最大限子供達に投入することであったし、すべてを与えようとするパフォーマンスという事でした。
 さて、今日真夏の太陽が照り付ける一日になりそうです。こんな日も、元気でいられるかちょっと首をかしげてしまいます。息子の聖義も熱を出して唸って倒れていました。夜中に病院に連れて行った、頓服を飲ませて、朝まで何とか回復するかという気持ちでいました。もう少しで、息子も親になるのです。気力を振り絞って、頑張っているのだと思っています。私のような親の道を行くのだという事だと思います。そして、それは、大変な事であるのですが、狭い門を通っていくような気がします。夕方から畑に赴いて、ジャガイモの保存を考えながら、軒下にネットに入れて、吊るしてみました。日が沈むまで、農作物の事を考えて、収穫する楽しみから、野菜を世話する楽しみに、浸っていました。自然に身をさらしていると、畑が自然の縮図のように感じてしまいます。
 この自然と何ら変わらない要素で私の肉体も作られていると思うと不思議です。この台地が私の体を造っていて、すべての成分を供給してくださり、貸し付けて下さっていると思うと大変な事です。もし、私に自然が反逆し、貸し付けているすべての素材を返してくれと言われるものでしたら大変なことになります。そのような意味では、この大地は、私の生みの親という事もできるのでしょう。それだに、畑に来て、農作業をするという事は、表現してみれば、親に会いに来るようなものです。そして、確かに畑ですが、そこに愛情を投入すると、親しみが湧いてくるし、この畑があるから、自然がこの身に迫ってくるようにも感じるのです。それだから、暗くなるまで、畑での時間が何とも言えない気持ちになります。
 自分の根底に、畑仕事が、労働という事では無く、自然を愛したいという衝動に駆られるという事なのかもしれません。傲慢であるかもしれませんが、この畑が、私の為に存在しているような錯覚にさえ感じてしまいます。それだけに、いつまでたっても離れたくないという気持ちになるのだと思うのでした。おかげさまで、極真会館手塚グループの思想は、家族です。それだけに、自然も家族の一部として見ると、感動が深まります。農作業をするという事は、何か自然に対する刺激的な作業のような気がします。そのような恩恵を受けながら、家路に着くという贅沢なひと時でした。