2015年7月11日(八段語録2471)
戦わずして勝つ

 朝から、根白石の畑に直行しました。晴天で気温はぐんぐん上がっていきます。もうすでに午前中で、三十度を超えてしまっていました。午前中は、涼しいのではないかと思ったのですが、間違いという事です。午後からは、駅東・錦が丘、成田・幸町と教室は五ケ所回りました。夕方7時に終了でした。ちょっとふらふらしたのですが、それでも、自分の稽古をしようとしましたが、今日は心が折れてしまいました。それから、家族と一緒の時間をすごして、十二時には休むようになりました。忙しい一日であったという事です。毎日が精一杯の歩みをしていますが、過ぎてみればあっという間です。それでも完全燃焼を意識しての一日でした。
 さて、私が極真精神を受け継ぐ指導者として、主張していることは、一般の人たちが行こうとする安易な方向にという事は絶対に避けなければならないとうことです。むしろ、高い年齢になっても修業の道であり、困難を好んで推し進めていこうという気持ちになります。いろいろあるのですが、心がけていることは、愛情を抱いて、例え裏切っていく弟子がいたとしても、寛容な気持ちで対応しようとすることです。そうしないと、誤った弟子が、再び極真の道に帰ってくることができないのです。台風の時に、揺れ動く船の錨にならなければならないと思うのです。いつしか、心穏やかになって、再び修業の道を究めようとするときに、受け入れることができる心を抱こうという事なのです。
 ところで、裏切っていく弟子のパターンは大体決まっています。そして、苦情と共にいかに大変な思いをしたかという事を言い始めます。私が歩んだ極真の裾わけの道は、守ってくれる先輩もなく、いつの間にか、いなくなるというのが現実でした。極真空手はあくまで、修行の道です。厳しい修練に立ち向かって、それでも弱音を吐かず、自らを鍛えぬく戦いという事になります。なんで好んで、体を鍛えようとするかというならば、多くの人の為になる努力をするために、体力と精神力を養うためという事です。指導者は擁護されるよりは、厳しい批判の中にさらされます。そのまっただ中で、我が道を行くのですから、かなりの精神力が必要になってくるのです。そういう意味でも、どんな弟子でも受け止めて、愛情を注ぐという原則を離れては、指導者として成立しなくなるのです。
 途上において、弟子が敵対しても、私は遺憾に思っていません。私に対して友好的であるかどうかが問題ではなく、極真の道を共に歩み続けていくことが重要であると思っているのです。そのような弟子に対しても不平を言いません。復習もせず、その弟子を悪く言うつもりは毛頭ありません。私も多くの人より反対を受けました。一番の先頭を切って反対したのは、両親であったと思います。それでも、このようにやり続けて故郷に帰ってみると、両親は認めて、そして応援してくれるようになっていたのです。今親から受ける恩恵は、甘味なものです。そんな体験をするなかで、人生の秘密を知るに至ったのです。それは、押忍の精神が、人生を豊かに導いてくれるという事です。これからも、この精神は私の柱になると思います。修業の精神として、正しい心で、あらゆる試練を耐えると、戦わずして、多くの弟子たちに恵まれるという事を実感するのでした。
今どんな気持ち?