2015年7月9日(八段語録2468)
体験と経験ができる発射台

 人生を一回りしてみると、見えなかった事も見え始めてきます。もう成長することが無い肉体になって、健康維持をするのが精一杯になっていますが。ところで、この肉体を脱ぎ捨てて、新しい肉体に着替える訳にもいかず、かといって、気持ちは、青春のひと時程ではないにせよ、成長する気持ちが人一倍強くなっているのは有難いのです。それゆえに、必然的に、自分自身が納得する理論を打ち立てるのです。
いままで、極真空手で、肉体の改造に着手し続けて、最強のボデーを築き上げてみると、次には、最強の見えないボデーの形成に注目し始めているという理論です。それは、知情意で示される心の分野の体の形成という事です。これを肉体とは言わないでしょうが、見えない五感を最強の形にしようとするのです。もう私にとっては、観念的な知情意の心ではなく、生活の知情意の心であり、同時に理念としての知情意の心なのです。そして、まだ健康でいられるうちに、実質的に生活体験しようとするのです。そして、生活で体験することで、その価値を高めて、自分自身に身に着けようとするのです。これを、新しい魂の五体とでもいえるのだと思うのです。
 このような事を思い浮かべられることに感謝という事です。このような価値ある生き方があるという事は思ってもみませんでしたが、実に贅沢な生き方であると思っているのです。若き日の極真修業の成果がここにして現れているという気持ちです。それを体験するのです。もちろん、極真空手は、実践空手でしたので、経験の上に成り立っているのですが、その上を行くのが、今の見えない五感の形成という事になっているのです。これは、言葉だけの事でなく、生活そのものになっていることに至上の喜びを感じてしまうのです。
ところで、今誇れるのは、両親に恵まれて、育ったという事と、この家の長男として生きてきたという事です。この事実は、一生を過ごせば無くなりますが、それにしても、生きている間の誇りなのです。そして、このことが、人生を歩むうえでの、私の原点であり、あらゆる可能性のある道に進む、発射台になっていったのです。これは、事実という事だけでなく、実体の絆という事なのです。もちろん、人間として求めている最高の事ではないにせよ、人生を歩む上での切り口になりました。そのような事を連続して考えれば、ご先祖様に感謝であるし、もっと深遠なる世界では、神仏が導いているという事に感謝という事です。
 今日も一日、忙しくしていました。考えさせられるのは、人との調和、そして持ち前の個性の発揮です。どのような立場にあるのかという事をしっかり認識して、その場をよき方向に持っていくことができるようにするという役割です。どのよう立場でも、中心的立場という事は無いのです。脇役やチョイ役が多くあるという事でしょう。それでも、そのような立場でも重要に思って、全体の発展の為に、何か自分ができることが無いかという事に真剣になるという事なのです。実際に、この世間において、現役で活躍することができるという事ですから、やらなければならないことは、星の数ほどあります。そして、その一つ一つの役割を、真面目に取り組むという事に全力で尽くすのみです。疲れがちょっと溜まってしまっていますが、少し休めば回復するのです。有難いことです。