2015年7月3日(八段語録2462)
現実に疑問を呈しながら、それでも前進

 ちょっとの間に、公的な施設を勝手に占有するようなことがあるのだという事を目の当たりにしました。気にも留めていなかったことでしたが、お客さんを迎える準備をするために、施設の利用を申し出ました。ところが、この部屋は、ある特定の指導者にしか利用できないのですという返答がきました。七年前には、自由に活用させて頂いた部屋でしたので、驚きを禁じえませんでした。このような時は、市民を代表する人に理由を調べてもらうしかないという事を思ってしまいました。もちろん、私達が遊びや飲み食いの為に使用しようなどとは思っていません。あくまでも、必要に迫らせて活用したかっただけなのです。私も自分の動機が個人的であるかどうかの分別をしっかりして、公的な発言として表現しなければならないという気持ちになるのです。私は苦情を言うだけであったら、ダダの圧力団体でしかないのですが、あくまでも青少年の教育を推進している団体としての正しい心で意見を述べようとするだけなのです。
 ちょっと掘り下げて、このような問題点を発見した時に、自己中心を貫いて話そうとしているということを私は嫌うのです。理念は調和と強調という事です。全体の公的利用を前提にして考えるのです。主張をするときは、責任を持つという事が必要であるし、無私の精神でもって繁栄させたいと思っているからなのです。自分の心に自己中心的な主義、自己中心的な哲学、自己中心的な生き方という事が無いようにという気持ちです。理由は、多くの人への奉仕という気持ちでの発想なのです。そうでなければ、決して繁栄をもたらさないという事だと思っているのです。問題点を指摘するという事は、そのような心の準備がなければ、してはいけないと思っているのです。くどいようですが、これが普遍的な真理であると思っているのです。途中で突然、懐疑的にならないためなのです。
 ところで、私はというならば、愛情の心を続けて、苦労の道を超えて、社会貢献の版図を広げていかなければと思うのです。できるだけ、尊敬されるような道を、歩もうと思うのです。信じた極真の道は、今振り返って、良かったという思いが強いのです。もちろん、苦しいこともありました。それでも一生なのです。長くて百年にすぎないという事でしょう。この自分の人生を克服することができないようでは話にならないという事です。自分が自分誇るという事など、いくら考えても出てこないのですが、それでも負けないように進めていかなければならないという気持ちになります。
 今日も、社会貢献を意識しながらの一日です。スタッフの皆さんと話し合いながら、何をどうするかという結論を下すという事です。積極的にどのようにすれば、極真空手が社会を救うかという事を真剣に考えます。そんな苦労の道を歩まなくても良いようなものですが、試行錯誤しながら、多くの青少年を教育する為の努力を惜しまないという事を信条にするのです。私の夢はヨーロッパ、ロシア、北米と駆け巡りました。多くの外国の道場生が受け入れてくれたのです。私達の築いてきた精神を尊敬してくださる師範達と道場生に感謝という事です。私の気持ちが極真精神に根付いている限り、理想と完成人格を目指し、日々の現実を苦労というレベルに昇華して、犠牲の道を究めていこうと思うのでした。