2015年7月2日(八段語録2461)
普通の親心

 今年は、梅雨に入っているのかどうなのかが分からないような天候です。朝起きて、晴れ渡っていますから、俗に言う空梅雨という事なのでしょう。私の気分はというならば、今日生きたという事に関して、感謝の気持ちを持つのです。毎日の生活が生死の覚悟をもっていかなければ、無駄に過ごしてしまうように思うのも、そんなに長い人生ではないからだという事を覚悟しているからという事でしょう。それだけに、そんな気持ちを守っていこうとするのが、心構えという事になると思うのです。日々いくら頑張っても「まだまだ」という気持ちの連続なのです。誰からも教えられなくても、そのように感じるのは、心の状態がそうだからという事になります。
 さて、子育ても最終段階に入って、息子夫婦が出産するようになっています。まだまだ、親としてやらなければならないことが多いのですが、今まで振り返っても、自分は何でもいいから、子供の為に一生懸命に歩んできたように思います。もうなりふり構わず、子供たちの為に、投入してきたというのが実際という事です。妻のお腹の中から出産した子供であるだけに、息子の為であったら、火の中水の中という事でしょうか。親ばかにも程があるという事までしてしまいました。息子の勉強が思わしくないと思うや否や、私がその学校に入学するのですから、気が狂っているという事の最たるものです。結果、息子は無事卒業を果たし、国家資格の柔道整復師の資格を取得することができました。そして、今は、中川接骨院での修業の日々を送っているのです。
 そのような親達は、当たり前に存在しています。自分はどうなっても、子供の為であったらなんでもやってあげたいというのが、親なのでしょう。そこには、報いとか感謝など求めないという親心が働いているという事です。このようにして、家族としての基盤が作られて行くという事なのだと思うのです。息子も、順調ならば、八月には親になります。私が語らずとも、このような気持ちを通過していく人生を送るのだと思うのです。こんな気持ちが親としての公式的な気持ちなのだという実感をします。もちろん、そうではない親たちがいるとは思いますが、できなくても、心の公式になっていると思うのです。このような事は、親なのだから、親としての運命を無視することができないという事になるのです。このような宿命の道は、親である限り、引き続き死ぬまで適用されるのだと思わずにはいれませんでした。
今日は、いつものチラシ配布と本部道場での違法駐車の問題、北仙台の教室での講和と新入会者に対する対応、そして博先生の紹介という事もあって、忙しくしていました。電気だけで、プリウスを動かそうとしましたが、かなりガソリンを使ってしまいました。仕方がありません。今回は名取進出について、検討しました。地域の確保も必要ですが、それ以上に、道場の教育ラインである指導の充実を図っていきたいという事を検討したいという気持ちになります。人が立派に育つには時間がかかります。そして、しっかり支えようとする気持ちを抱いてもらうにも、人としての私の無私の心と親心が大切になります。決して、金銭で動かすような組織にはならないようにしなければと思うのでした。