2015年6月30日(八段語録2459)
まだまだ

 今日で六月も終わりという事です。何をどのように行ってきたかというと、まだまだ甘すぎる自分があります。極真空手道の修行者として、自分のレベルを診断しても、大した活動を行っていないという事です。まだまだ大いなる目標に向けて、完遂する義務があり、責任があるという気持ちになります。空手道の伝統を、本質を究めようとすると、今までの苦労の道は、それほど高いレベルではないというような気がします。もっと何度も生死をかけた峠が待っているのであろうと感じるのです。今まで振り返っても、まだそのような境遇に達したかというならば、たとえ全日本の試合中であったとしても、もっと努力すべきことがあったと反省するのです。そう思うと、休むような気持にもなれないし、理想への道を突き進まなければならないと、本気で思うのです。だから、もっと強い覚悟をもって精一杯、ありったけの力を尽くして、遠慮せずに踏み出していかなければならないと思うのです。そうしないと自分が納得しないという事です。
 さて、私の青春時代は、当たり前のように極真空手の強さを追求したものです。若かったこともあって、強さが自分の目標であったのです。総裁が亡くなった後は、分裂問題が生じて、考えさせられることがありました。そして、私が選んだ道は、道場生としての、二世の教育という事でした。このために、私自身が大学へ出向き、修士号を取得するなどして、知的にも学問的にも、伝えることができる極真空手の道を選択したことになるのです。その分野は、地位や階級が問題ではなかったのです。あくまでも二世に対しての教育であり、そのパワーを磨いていくという作業に移ったのでした。それで、大学に入学しても、そこにおいて、まだまだ追求する道があると真剣になったわけです。もっと、真剣に、もっと固まって、もっと強いレベルを探し求めたという事になるのです。年齢を重ねてからの勉強は、朝スズメがチュンチュン鳴くまで、パソコンを覗き込みながら、両手でタッチタイプして、歯を食いしばって究めようとしたものです。そんな連続する日々があったからこそ、今道場生に自信を持って、極真空手を宣布することができるのです。
 ところで、この人生において、極真の理想はどこまでも続くのです。それは気持ちと共に、偉業としようと日々基盤を作って、目的に向かっているのです。そうしないと、納得などできないのです。これは私のためだけでなく、すべての人達を加担させてという事です。そういう意味では、勝利が充満するようにしたいし、幸福の福地建設を目指すという事なのです。もちろん、それが家庭に連結できなければ、意味をなさず、人としての道を究めるうえでも、永遠無窮の理想を果たそうと大きな事を思い描くのです。これが自分の欲求であり、願いという事なのです。でも現実は、まだまだめげないでいかなければならないほど、遠い道のりという事です。自分の屈曲した人生を正すと同時に、戦わなければならない課題と向き合って、自分なりに歩む道を保護しなければならないという気持ちにもなるのです。
 それでも、極真の道は、さまざまな事があります。嘲笑を受けて、うめく事もあるし、開拓しなければならないことが、あまりにも多いことに気が付きます。決して、極真の道は平坦な道ではないと覚悟をするのでした。