2015年6月23日(八段語録2452)
疲れた一日

 「不思議な自分と不可解な自分」がいるのです。生きているということ自体、自分のためだけでないように感じるのも、良心の叫びでしょうか。ある意味で、社会全体の為に、何らかを貢献せよと使命をもって生まれたのが、自分のような気がします。ですから、自分という所在は、個人的なものではないと思ったほうが、正解に限りなく近いと思うようになっているこの頃です。
先祖から遺伝子が受け継がれ、両親に愛情を注がれ、何か社会の為になる子であると期待され、育ってきたわけですから、そのことをありがたく思うのは当たり前なことということです。そして、私自身も息子・娘を産んでみて、この子供達が社会の為に貢献出来たらよいのではないかと思うに至っているのです。
 さて、志を持っている人を支えるということも、有意義なのは、このような観点から感じるのです。その人が市政の為に貢献している政治家であるすると、地域社会の為に活躍して欲しいと、自分のことのように思うのです。そのような意味では、地域を代表して代弁していただける方だという認識で、支えようとするのです。
そうすると、いつの間にか、自分が社会に何か貢献していこうとする狭い窓口が開けるように思うのです。日々の生活は自分を中心として、家族を守っていくだけで精一杯なのですが、それだけでは満足しない自分があるのです。それは、絶えず地域のため、日本のため、より視野を広げて、世界の為にという気持ちになるのです。もちろん、現実的には、我が家の子孫のためということも視野に入るのです。
 そんなこんなを考えながら、夜行バスで東京にきました。あらゆる内容で会議がなされました。長い時間ではなかったのですが、討論しました。空手の事をどうのこうのという議題にはならなかったのですが、それなりに有意義な時間を過ごさせていただきました。夜行バスなので、深夜には仙台に戻ることができたのですが、朝は疲れが出て、起き上がることができないほどでした。
 とにかく、個人的な事を考えていろいろな事を行うと、見るここと、聞くこと、考えること、ちょっと辛くなります。なるべく衣食住すべてを、奉仕の精神で歩みたいと思うのです。それも愛の心をもって対応するのが「不思議な自分、不可解な自分」であると思っているのです。何はともあれ、今日は疲れました。そのような心を癒そうと思うのですが、寝るのが一番と思って、長い時間休ませてもらいました。それでも元気になるまで、時間がかかりました。