2015年6月16日(八段語録2446)
完熟人生

 足の指の爪が剥がれてから、10日余りが経ちました。薄皮ですが、爪のようなものが生えてきました。再生能力が高いようです。そうなると、身体が病まないので、食事は美味しいし、生活が楽しくなります。私の人生にちょっと光が差してきたようにも思うのです。思うに、健康な肉体があってこそ、精神が健全にあり続けることができるのだということです。いくら精神強く持とうが、肉体に支障が出るようでは、思うようには行かないのです。あともう少しで回復するところまで来ています。足の親指の腫れが引いたら、ビッコも引くことなく歩けるようになると思うのです。
 さて、肉体が改善しても、昔のように体を鍛えるという作業はできない年齢になっています。肉体を鍛えるという所から、頭を鍛えるという事を四十代に実践してきましたが、六十代になったならば、心を鍛えるというとことに重きを置くべきであるという気持ちになるのです。肉体→頭脳→心の順に鍛える箇所が違ってきているようにも思います。もちろん、一概には言えませんが、協調するところが違ってきているという事です。心の完成は自動的に達成するとは思えません。頭脳と同じようです。頭脳は、勉強という努力を重ねて、明晰になっていくのであり、心を磨くという事は、責任を持って心を磨くという事でしょう。完熟した心とはどのようなものか、自分でも味わってみたいという思いにもなります。
 ところで、今日は畑の玉ねぎを収穫する日でした。二千株の玉ねぎが、見事に成熟しました。玉ねぎは、成熟すると、茎が折れるのです。そして、遠くから、白い玉が目立つのです。さっそく、一輪車で運ぶために、玉ねぎを土から引っこ抜いて、倉庫の軒下に、長い棒をぶら下げて、十個入りの玉ねぎを、一纏めにして吊るすのです。それを、五十吊るして、五百個の玉ねぎをぶら下げてきました。これは自然界が提供してくれた、野菜ですから、栄養素が満点です。特に私のように持病を持っている人にとっては、恵みの保存食という事になります。農業経験の少なく、見識が少ないので、玉ねぎ君が良く思ってくれているかどうかはわかりませんが、とても大きな玉になっています。病気にもならず、すくすく成長した玉ねぎ君に感謝です。
 さらに、梅木を見ると、梅の実が完熟しそうな勢いです。もう早いもので、梅の実君も梅干しになりたくて仕方がないようです。梅木も、梅の実を実らせて、初めて、人に感謝されるわけですから、その時期が今であるという事で、明日早速、木から収穫しようと思うのです。梅木が四本ありますので、相当な量の梅の実が取れるのです。私として感じさせられるのは、木と同じように、私も心を成熟させて、人生を終えないと、満足した人生にはならないと思うように至っているのです。そのような意味で、完熟させた人生を歩みたいと思うのです。虫に食われるような腐った心にはならないように心がけていきたいのです。心の年代であると決めつけて、利己的な快楽ばかりを追い求める背徳の人生で終わることが無いようにしたいものです。畑の作業の中からでも、不思議に悟りが開けるものです。決して、完成品ではない私ですが、それでも今日も一生懸命でした。眠い目をこすりながら、今日の整理をしているところです。