2015年6月13日(八段語録2443)
回想

 久しぶりに自分の本音を表現してしまいました。昨日のブログで「孤独なのはいや」であるという表現です。今も変わっていませんが、それでも、人生を歩み続けて、誰も自分を理解してくれるということは無かったような人生を歩んだのも事実です。私に同情してくれたかというならば、高校生であった私を理解してくれた先生もなければ、学友もいなかったということです。それでも、私が決断した道は、誰もが喜んで送り出してくれるようなものではなかったのです。だから、いつも信念が試されました。そして、くじけそうな自分との戦いは最絶頂期を迎えて、挫折しそうになることなど、何度あったか計り知れないくらいでした。それでも、酒に溺れることも無く、タバコを吸うわけでもなく、女性にうつつを抜かすわけでもなく、まじめにコツ事と歩んだ日々が思い出されます。
 さて、こうして極真会館の副会長であり、社会貢献している私に顕現されるようになりましたが、修行の道においては、苦難に直面し、身もだえし、今自分が歩んでいることは、正しいのだろうかと何度も反芻する日々であったようにも思うのです。本部道場の直径一メートル以上のサンドバックを毎日何時間も叩きながら、決して敗北しないように、勝利の歩みをしようと何度思ったかということです。結局、愛する父母や兄弟、学校、すべてを捨てたような人生を送ったということです。先駆者の事を思えば、私の苦労など大それたことではないと思うのですが、若かりし頃の私にとっては、日々が「一大事」のような感覚でした。この道は、実践が主張するのが当たり前なので、苦労しないというのは考えられなかったということです。
 ところで、私もズルしたくなる思いもありました。安易な事を好んで実践した時期もありましたが、結局後戻りして、再び元に帰らざるを得ないという日々になりました。テレビやマスコミ、映画で盛んに宣伝されるようになると、少しは自信を持てるようにもなりましがが、それにしても、バカにされることもしばしばです。しかし、地道に歩むしか、この道の大成はないということです。当然、説明できるものではないのですが、究極の道であると自分に言い聞かせる以外にはないのです。私は、現実の組織の形成と分裂にも携わってきましたので、なおさら揺れる心を越えて、信念でもって歩むほかなかったということです。個人でも歩み続け、家庭を持っても歩んで、そしてこれからもこの道を、決して汚すことなく、前向きに前進していきたいということです。
 当然、今になって、誰もが理解するようになりました。地域社会も評価してくれるようになっているのです。そして、盤石な社会的責任を負うようにもなっているのです。振り返れば、無茶苦茶な歩みも、ここにきて、成熟して実ってきているという事でしょう。それだけに、最善であった人生と評価することができるのではないかと思うのです。今は、人生をエンジョイしているということです。そして、この道を歩んでいくという事に関しては、気持ち良い清涼感があふれるのです。ちょっと体を壊して、進みにくくなると気持ち悪さと、焦る思いが生まれてくるのです。今日は稽古日でしたが、足の指の爪が剥がれたという事で、大事に至らないように配慮してもらって、休みを頂きました。感謝の何物にも代えられません。