2015年6月12日(八段語録2442)
生きている理由

 やっと雨が降りそうです。畑の農作物も喜んでいるようです。部屋が暗く感じますが、それでも、やるべきことを整理して、今日すべきことの整理を始めました。メインは、社会福祉協議会の会合が午後からあります。それから、今心掛けなければならないことは、足の爪の剥がれによる痛みとの戦いと、ロシア訪問の疲れの癒しということです。体重も100キロを超えて重くなっていますので、少し減量も必要です。どのくらいのボデーの寿命かは、図り知ることはできませんが、自分の意識として、メンテナンスをしっかりして、できるだけ長く活用できるようにしなければと思っています。
そうでなければ、自分の持っている天からの賜物を十分に生かすことできないように思うのです。聖書をおもむろに開ければ、かつて、イエスキリストが、どのように人生を送ったかという事が書かれています。この村で追われれば、あの村へ、そしてこの都で追われれば、次の都へと放浪の旅をしたというのです。結局生きていた時は、誰にも理解されなかったという事が書かれているのです。
 さて、私の人生を考えると、誰にも理解されない生き方など、まっぴら御免こうむりたいと思うのです。確かに後世になって、尊ばれるということも、ありがたいことですが、実際、生きていて、多くの人と良き関係を持って、人生をエンジョイしたいというのが私の気持ちです。学院大学でキリスト教学を学びましたが、死んでから影響を与えるような生き方でなく、生きている間、多くの人と分かち合いたいというのが私の生き方であり、死んでから尊ばれたいとは思わないのです。もちろん、けなされたくはありませんが。
生きて、喜怒哀楽を共にする家族がいて、極真会館でも、共に苦労する道場生がいるというのが私の誇りという事になります。私が誰かと問えば、師範と答えてくれる道場生がいるし、親父と言ってくれる子供達がいるし、主人として連れ添ってくれる妻がいるのです。それは、いかにしあわせなことであるかということです。別に私は、崇め奉られるような事は望みません。それ以上に、寝食を共にする家族と道場生がいるだけで幸せであるということです。
 ところで、考えてみても、私が生まれたくて誕生したのではないのです。明らかに、天の計り知れない意志が働いて誕生したということなのでしょう。そうであるとするならば、私の生まれた理由がある筈ですし、あらゆる意味で、この大地が守ってくれるであろうと確信しているのです。そのような意義ある人生を無駄にしたくはないのです。それは確かに平凡な事かもしれませんが、そのこと自体が大事なことなのです。少し、我ながら考えるのは、悲しんでいる人、困っている人の為に、何か差し伸べることはできるような気がします。そんなに大げさな事でなくてもいいのですが、人様の為に何かできれば、本望であるという気持ちになるのです。ただ、誰にも理解されない道を歩むのは、もう懲り懲りということです。みんなの同意を得て、一歩ずつ歩みたいものです。
 今日の天候は霧がかかって、梅雨本番のような感じでした。そして、そのような事を思いながら、一週間の間、肉体の休養に入ったこともあって、大分体が楽になりました。そのようなことで、明日は早速、駅東口の稽古から始めようとおもっています。さて、再出発という気持ちでの明日を迎えようとするのでした。