2015年6月10日(八段語録2440)
ちょっとした憤り

 人生に憤りがどれほどあるかという事を考えても、思うようには行かないものです。肉体の全てが麻痺してしまうような感覚になります。もちろん、文句を言えばそれで済むことでしょうが、どうしようもない事は耐えるしかありません。自分の人格を提示する以外にないのだというぐらいの事はわかりますが、心穏やかでない日々は続くということです。それも奉仕活動での出来事ですから、やりきれない思いもあります。それでも、少しずつ改革に着手していかなければならないので、意見を述べるという事はしなければならない事であると思うのです。まず、会計面での改革が叫ばれます。個人に支給される報酬を、全体で運営するというのは、上部の意向に反するのです。さらに、そうしたお金で、飲み会を行うときに、コンパニオンを呼ぶのは、やりすぎという気がします。
 さて、世間を渡るということが、どれだけ多くの困難が多いかということです。そのような不条理の環境から抜け出すことができないというのは、ちょっと嘆かわしいと思ってしまいます。このような環境を越えていくには、自分の良心に手を当てて、間違っているかどうかの判断をくださなければならないのですが、あくまでも自分に対していという事なので、人に対する強制力など持ち合わせていないのです。一歩ずつ人生を歩んでいくといろいろな事に出会います。その一つ一つを的確に分別しなければならないのでしょう。そんな事を考えてしまいます。
 ところで、そうした中で、私の生き方の原点を「愛」に置いているのです。だから、人を許すという、寛容な心を抱くように心がけているということです。朝に顔を洗い、夕方には疲れて帰ってくるのですが、どれだけ自分を謙遜に、そして柔和にするかということが大きな課題であるという事です。今日は、保護観察対象者との面接をしました。今までは、話を聞いて、うなずいて指示を出すという事でしたが、なかなか本人の自覚が上がっていかないようなので、私のブログを読んでもらい、何か人生に対しての前向きな姿勢が生まれればいいのではないかと思ったのです。結構、いい反応がありました。それだけに、自分の身を正すという事が必要になるのだという気持ちになります。
 このようにして、痛哭するような気持ちも、自分なりの理想を求めて、生涯を捧げていくことができる犠牲の道を見つけたからにはありがたいと思わなければならないのです。それが、極真空手であり、手塚会長との出会いということなのです。性格は同じ、血液型B型なのですが、大分違うのです。それでも、考え方や、思想が一致するから不思議でならないのです。何を話しても、会長のプログラムの中にあるので、心地よく返答してくれるのです。決して無理をしているようでは無いのです。気心が合うという事が、どれだけ、私自身を自由にしてくれているかということです。弟子に裏切られてきただけに、慎重になることは十分考えられるということです。私の場合、そんなに致命傷になるほどの裏切りを受けたことが無いので、ボンボンの坊ちゃまのように見えるのではないかと思うのです。もう既に、現場へ復帰しなければならないのですが、肉体の法則にはかなう事はできないようです。それでも、今日はプールで軽めのウォーキングをしながら、体調を管理していきたいと思っています。