2015年6月6日(八段語録2436)
全身が炎症

 喉の炎症が治らず、身体全体が怠いのです。午前中は休もうと思ったのですが、千順さんと部屋の片づけをするという事で、タンスを運んだのです。その時、足の爪を剥がしてしまいました。あまりにも痛いので、清水外科へ直行です。もう既に、爪は剥がれていましたが、応急処置で、痛み止めの薬をもらって、再び家で片づけを手伝っていました。そんなこんなもあって、踏んだり蹴ったりということですが、ロシアと違って、日本の風景は懐かしさもあり、心地よさもありました。今日は朝方雨が降っていましたが、午後からは晴れて気持ちの良い初夏の香りがしていました。もう既に、実家にUタウンしてから、二十三年の年月が過ぎてしまいましたが、当然自分達の生活の事だけを考えていれば、それだけで済んでいましたが、志を高く、社会に役立とうとする気持ちが大きかったので、学問をしたのも、それに見合った歩みをしたのでした。その基本的なキーワードは、先日のブログにも表現したのですが、「犠牲と奉仕」という事でした。 
 さて、このキーワードに関しては、自分の生き方のモットーにしているのです。それは、善人として生きる決定的な原則であると感じているのです。このようなオーソドックスな原則を踏み外すとするならば、どうでしょうか。例えば、私が中国人や韓国人に偏見を持っているとするならば、私の態度は、日本人からも非難されるようになると思うのです。このような判断は、今まで歴史でいつの時代も犯したことですが、普遍的な原則として、間違っているといわざるを得ないのです。どんな人種であっても、差別してはいけないということが、普遍的な真理であるという事が、普遍的に正しい判断であるという時代的な認識がされているのです。もし人種差別をするような人であるならば、どんな才能があろうとも、審判されてしまうでしょう。
 結局のところ、そうなると、他人の為に生きようとすることが、私の生きがいという事になるという結論です。他人を利用して、自分の利益だけを得ようとする人は、必ず排除されるようになると思うのです。このようなわけで、私は、他人の為に存在する人間になりたいとおもうのであり、生き様としても他人の利益になるような行動を行っていきたいと思うようになっているのです。それは、誰にも止めることができないことでしょう。私の邪悪なる心があるとしても止めることはできないのです。そんなわけで、キーワードに挙げた、「犠牲と奉仕」は、私の普遍なる根底からの精神で、これは「人生の鉄則」という事になるのです。この生き方は、極真空手を実践していくうちに、かなり強固になりました。強い意志が、自分を貫くようにもなってきたのです。そのような理由で、人生をいかに有意義に生きるかという事で、選択したのは、商売でもなく、青少年教育をしようとする、極真会館の極真空手であったということです。これからも経済的利益に走ろうとは思わないし、この精神が貫かれての極真会館であると思っているのです。こうして、足に痛みを感じながら、自分の信念を貫く、痛快さは、たまらない程、痛快で仕方がないのです。足痛み、喉の痛み、あらゆる苦痛を身に着けても、この生き方が自分に合っているようです。金がないなら、節約です。節制です。資本主義ではない、節約節制主義でしょう。