2015年6月5日(八段語録2435)
ロシア訪問の総括

 午前10時半、成田空港に到着です。エコノミーの狭さで巨大な体ですから、節々が痛くなります。それでも、10時間余りの長旅も無事終了です。ホテルに駐車していた愛車のプリウスに、会長と二人で乗って、流山市の会長宅に一時には到着、そして、仙台に東北自動車道を通って、帰路に着くということです。時差ボケでと風邪気味で体調が思わしくなかったのですが、休みながら、八時過ぎには到着です。そして、心静かにロシアでの10日間余りの歩みを振り返りました。何を振り返ったかというならば、どれだけロシア支部の為に、奉仕をしてきたかという事です。別に利己的な理由で訪問したわけではないのです。あくまでも、ロシアの発展のために、自分の持てる全てを投入したということです。結果的に体調も崩してしまいましたが、それでも気持ちは清々しいのです。あらゆる思い出が、自然に走馬灯のように思い出されます。それは、ロシアでの日々が、私の心の中で総括され、すべての行為に意義を持って現れるのです。
 さて、今回の訪問に関しても、自分の心で整理してみても、二つのキーワードに集約されます。それは、「犠牲と奉仕」です。ロシアのボリス師範にどれだけ貢献できたかということが自分の心の判断になるのです。この訪問で、観光客のように、世話になってばかりいるようでは、自分のプライドが許しません。あくまでも、何を貢献してきたかということが自分にとって問う材料になるのです。この訪問のよって、ロシアの極真会館の発展に寄与し、拍手喝さいを浴びられ、ほめられるかという事にならなければ何の意味も持たないのです。そうでなければ、無意味です。やはり、自分にとって似つかわしい生き方は、奉仕をするということなのです。利己的な貪欲で生きることなど、私にとって耐えがたい生き方になります。そんな生き方をするようであるならば、繁栄などありえず、どのような調和も強調もあり得ないということです。
 ところで、何故そのように思うかというならば、自分の生き方が、親の生き方に似ているからだということです。そして、それは自然に身についている性質なのです。私の気持ちは、分裂と破壊を嫌います。目の細胞を考えてみても、それ自体大切なことです。そして、それらの細胞は、目全体を最大に活動させるために動きます。自然の法則はそのようになっていて、視力を維持しているということなのです。そう考えると、私の生き方も正当化することができます。単純な生き方が、自分を生かす生き方という事になるのです。そのような気持ちは、これからも変わらないし、変えようとも、思わないのです。
 そのような事を、考えながら、疲れた体を、我が家で癒そうとするのです。妻が迎えてくれました。長男夫婦も、そして娘たちも、帰りを喜んでくれました。そんな有難い家庭があるということが、何とも幸福感を誘います。疲れた体に鞭打って、歩んだ十日間が報われます。寝室に入っても、妻との会話が続きます。十日間、留守をしていただけに、妻からの話は山積みです。その一つ一つを聞きながら、うとうと眠りにつきました。六十二歳になろうとする年齢で、こんな幸せな時間を送れるのですから、果報者という事でしょう。