2015年5月26日(八段語録2425)
勉強より志
現代は、成熟した社会になっています。私の青春時代は、問題は多くありましたが、課題と共に、何か大きなエネルギーが渦巻いていました。しかし、最近の青年を見ると、情熱を見出すことがだんだんと難しい環境になっているようです。インターネットやゲーム・様々な用意された小道具でちょこちょこと踊らされているという感じがあるのです。見渡す限り、かわいそうに思える青年たちが増えているようです。私の場合、何も無かった高度成長期の幼い時から、人生の目的が明確でした。貧しかったということもあります。どんな分野であれ、社会のリーダーになるという気持ちが強かったのです。そんな気持ちですから、長いものに巻かれて、グループに染まるという事は全くないのです。言ってみれば、一匹オオカミという事でしょうか。それで、弁護士を夢見たりもしたものです。幼い頃に胸に抱いた目的を生涯大切に持ち続け、それを成し遂げようと、熾烈な人生を生きようとしたのです。テレビでの早慶戦が刺激的でした。そして、早稲田大学に入りたいという夢を持った時に、勉強という事を始めたのでした。寝て、起きて、勉強するのも、未来の人生のためという意識があったように思うのです。結果、早稲田大学には入学するという事はできませんでしたが、それ以上の指導者としての道を歩もうとする、気持ちは高まった青春時代であったように思えるのです。私のように無我夢中で、達成しなくても、未来の舞台に準備しようとする気持ちが大きいのでした。
さて、過去振り返っても、何はともあれ、偉大な人間として生まれたのに違いないという確信を持つのです。だからといって、偉大な人生を歩めるとは限らないのです。私の場合、志を持ってから力強い生き方ができるようになりました。いついかなる立場でも、指導者として即座に準備できるようにしたのです。そのために、極真空手を選択したということなのです。理由は強靭な肉体を作らなければ、何にも対応することができないであろうという見解でした。もちろん、勉強をすることが好きという事ではなかったのです。自分の行くべき道を自分で決めるために勉強するという意識が強かったということです。
ところで、私の場合、強靭な肉体と精神的支柱を求めたという事です。そうすると不思議に自分から勉強もするようになり、自分の行く道も自分で求めるようになるのです。我が家では、親が私に勉強をしなさいという事を激しく急き立てたことは無かったのです。勉強すれば、未来に備わることを、親父の生き方で示してくれたのです。だから、不思議に自分が勉強する時期に、何の備えもないままに未来に直面しないように努力するようになったのでした。
結局のところ、志が先にあったので、勉強をするようになったというのが本音です。そして、どれだけ、役に立つ人間になるのかという事を、明確にするという事でした。それだからこそ、極真空手というものが、全面的に自分の素質と趣味になったということなのです。志を立てて、自分の生きていく人生の意味を決定していったということです。それゆえに、自分を守っていく力が湧き、特別な人生を生きていくことができたのではないかと思うのです。決して私の人生は普通の人生ではないという事を、誰もが証するのです。