2015年5月18日(八段語録2417)
自らを正す

 いつも思うことなのですが、個人に重点を置くと、私の場合自己が強く表面に出すぎて、全てが敵にまわります。そのような事で、私の場合、最低限の単位を家庭に置いているのです。そうすることで、この家族を守るためにどのような行動ができるかという判断が最低限できるようになります。自らの自己中心主義の回避という事です。もちろん、あくまでも、多くの人が、自分の欲望を中心に私を利用しようとする人はたくさん出会いましたし、これからも出会うと思うのですが、いちいちそれに対して向き合っていたならば、こちらが疲れてしまいます。ましてや、同化は許されない事です。極力無視するか、騙されてもいいという覚悟を持つべきであると思うのです。一緒に歩んだ人が背を向けることだって何度もありましたし、裏切りもありました。気持ちとしては、空手で鍛えたこの拳で、一気にぶっ叩きたいという憤慨心を持つものです。それでも、人として生きることを選択したのですから、近づかないように極力するだけという事になります。そんな思いをするたびに、私の場合、竹の節の一つ一つが太くなるのです。
 そして、その節が大きくなるにつれ、年輪のように時を刻んできたという事です。もちろん、このような苦痛を流し去ってはいけないという気持ちになります。私の心の大事な部分にしまい込み、自分の器の小ささを嘆くと同時に、抱擁できるまで自信と誇りを持って、指導できるような立場まで引きあがろうと努力するのもという事です。そのようである限り、よそ見も、横道を歩むという事も無いという事です。まあ、人生は山あり谷ありという事でしょう。個人としての歩み方をしないのですから、妻の愛がどれ程大きいか、家族の支えがどれ程大きいかを悟るばかりです。それが、個人主義として歩まないという自分の信念になるのだと思うのです。
 ところで、私の場合、構想理想が高かったのです。無茶を相当繰り返してきました。体力にものをいわせて、不眠不休の闘いも何のそのという事でした。その理想があったから、素晴らしい人材も訪ねて来たし、大いなる働きもしてくれました。それでは、今はその高い構想理想が無いかというと、厳然とあるのです。ただ違いは何かというならば、二代目を中心として基盤拡大をするという方向性を、影ながら守っていくというポジションからの姿勢に変わったという事です。その決断は、私にとって、革新的でした。自分が全てという概念が少なくなり、家族単位、しいては組織単位での発想をするという自分の進化にありました。 
 そのような事を考えながら、今日は、保護司会の研修会、総会、懇親会が立て続けにありました。会長の年齢による退任、そして執行部による新しい体制の発表と世代交代になっていきます。もちろん、私のポジションはというならば、犯罪予防の部長という事で、理事という事で変わりなく、歩むことになっています。保護司会の組織で、気が付くことは、委嘱される人の高齢化です。私のように若くして保護司になる人にめったに、最近は出現しないのです。退職してからという事でしょうか。そのような気がします。私は、この保護司としての誇りを胸に秘めて、自らのコンプライアンスを厳しく定め、自己研磨に勤しみたいと更なる決意をするのでした。ちょっと宴会では食べすぎの傾向です。ちょっとダイエットしなければと思うのでした。