2015年5月17日(八段語録2416)
サボらずに稽古

 極真会館での指導者像は、第一線で指導するという事です。一番前に立って、汗を流して、全力で投入するというところに、価値があるのです。躊躇せず、全身全霊、完全投入を持って指導という事になるのです。道場生を稽古で成長させるのですが、それ以上に自分が育つのです。稽古で一番成長しなければならないのが、指導者という事です。稽古で指導者がまず覚醒しなければならないというのが、私の主張です。指導者は何を覚醒させてきたかという事が問われます。そして覚醒したら、はたして、どんな事で、指導者であると主張する資格を得ることができるでしょうか。指導者は自分の価値と位置を自分で探さなければならないのです。指導者は、自分の位置を極真会館宮城県本部で探さなければなりません。心身を鍛えて、天と地が公認し得る完全な自分を探し立て、覚醒して生き生きすべきです。
 さて、極真空手の修行は、言うならば、心身を鍛えるという事です。それは、自信を持って、指導する事ができるかという事を、自問するという事なのです。それに対して、確実に回答を得ていくのが、前に立って指導するという事につながるのです。こうして、私が指導者として歩んでみても、未だ行くべき道が遠いという事を自認するほかないのです。不完全であるがゆえに、完全性求めるのに、何が問題であるという事ができるのでしょうか。当然、私や、執行部が要求することは、考えることもできない事もあるとおもうのですが、それに対する答えは、押忍という事です。そうでなければ、自分の器が広がらないのです。指摘されて、初めて気が付くという事になるのです。
 ところで、何故稽古をして行くかというならば、自分の成長は自己から探すには限界があるのです。稽古に投入するという事で、道場生からの刺激で、実現することになっているのです。稽古に投入して初めて、理想の自分を実現する道が開けるのです。それが、稽古をして自分を投入する理由になるのです。そのために自分自身の意志を固めなければならないし、まじめに稽古をしなければならないという事になるのです。稽古に自分の事情や利益を考えている余地はないのです。完全に道場生と共に、共に成長するのです。このような環境がなければ、成長は無いのです。そのような意味でも、宮城県本部に所属して稽古ができるという事がどれだけ感謝であるかという事なのです。
 今日も奉仕活動です。青葉祭りの梯子乗りを披露するのですが、高い梯子から、乗り手が落下しないようにと気持ちを引き締めて、纏を振ろうと思っています。世俗的にならずに、名誉や知識・財力に引きずり回されるような生き様にしなければと思うのです。いくら世俗的に優れていても、稽古で悟ることは、指導してみた実績がなければならないのです。指導者として、道場生を蜘蛛の子を散らすようにしてしまった人もおります。本人からの答えが無い限り、何も言いませんが、私を探し出せなかったという事になります。自分の稽古と何ら関係のない、役に立たない自分を反省すべきです。皆さんは、稽古でどこまで自分を探しますか。稽古は、お天道様が見ていても恥ずかしくなく、海を見てもやましくなく、誰に対しても隠れることのない、私探しの道なのです。