2015年5月12日(八段語録2413)
気持ち極真
極真空手で、強さを追求するあまり、人格的側面を軽視しがちになると本末転倒という事になります。強さに惹かれて極真会館の門を叩く道場生が多く存在しました。彼らは強さに最高の価値があると思ってすがってきました。しかし、一般に強さということに関しては、喧嘩に強いという事では無いのです。強さに、すがりつくのは正しい極真の伝統を求めるという事とは言えません。道場生は、基本、移動、型、組手の流れの中で、武道精神を身に着け、本来のその人が持つ精神と肉体の調和を求めていくべきなのです。稽古を長年続けていくと、心眼が開け、多くの判断が良心に立脚するようになるのです。ただ獣のような力だけを付けなさいということではないのです。私も、真心を込めて指導し稽古をしてきました。どんな人であろうと、しっかり稽古をつけてきたのです。もう時の経つのを忘れるほど指導してきました。それは、強さを全面的に提示して指導してきたのではないのです。あくまでも、真心を込めるという気持ちが強かったと思うのです。
さて、私たちは、極真空手の道をどのように理解すべきか、という事ですが、人の生命を尊ぶ道であり、私の足らなさを補う道であるのです。生命を貴く思って、人を敬い仰ぐことができる人になることが一番大切なのです。嘘偽りで人を騙すよう人を育てる極真ではないのです。自分の真実の心を真摯に受け止めるべきです。そこが道場での修行の場という事です。そして、最優先すべきことは、心身統一という事です。それを何によって果たすかというならば、極真精神によってという事です。このような理念と実際との課題に深く入ってみると、道場生が入門する動機は様々であるという事です。それを、理念によって指導する事が指導者には願われるという事です。要するに実際を指導すべきであるという事です。
ところで、道場生の修練を貴重な価値として満点に導くには、指導者の質が問われるという事です。心身一体の高いレベルを願うのですが、指導者の心身一体圏の共鳴圏に道場生を立たせるという作業が必要です。つまり指導者をモデルとして心身共の共鳴圏に道場生を立たせるという事です。つまり、一方をポンと打てば、その反対の音叉が響きます。同じ周波数になるという事です。そのような作業を成すことができて、初めて、稽古の入り口にたどり着くことができるのです。そのようにして新たなる希望の道に連結されていくというものです。道場生として入門したからには、心と体を管理する習慣をつけるのです。有段者になるまでに、習慣性を付けなければならないという事です。それだから心と体を鍛えるのです。心が弱ければ話にならないのです。それだから、稽古という心身の鍛錬をするのです。
今日も真面目に、極真魂を展開してみました。固い話になるのは私の癖かもしれません。それでも、人格者を目指そうとする私達であるからには、書かざるを得ないという事にもなります。今日は、四時半起床、辻立ちのお手伝い、交通指導、道場生との面談、消防梯子乗りの事前訓練と様々なスケジュールをこなしてきました。娘の順香も大阪の婚約者の家に出かけていきました。さまざまな動きがあった一日でしたが、無事過ごせたことに感謝という事です。もう十一時半ですから眠くなってきています。これ以上書くと訳が分からなくなってしまうので、お暇です。