2015年5月10日(八段語録2411)
それなりの生き方
人生苦労はつきものです。振り返ると、苦しんで身もだえするような歩みの方が多かった気がするのです。結局は最も困難であるという道でも歩み続けるのが人生のような気がするのです。そこで、極真精神は、効果的に生きてくるのですが、苦労を通じて、人格を磨き、愛情を深めていくという事になるのです。このような苦労の道は、妻と共に歩んで来られたからという事にもなるのです。一人の時は実に気ままに楽だったことも、家庭をもっては、そうはいかないのです。お互いの主張があります。そして、それに対する見解もあります。
時には、私が押し通さなければならない時もあるという事です。その時は妻に済まないと思いながら決定した道を進めるのです。それが主人としてのあるべき姿であると心得ているのです。もちろん、通常は妻に従いますが、いざという時には、絶対に譲らないという側面にもなるのです。
私の根底の姿勢の中に、世のため人の為に自らを犠牲にしようと気持ちは強いのです。困った人がいれば、助けてあげたいという気持ちになります。私が小さい時に、物貰いの人が良く訪ねてきました。母は多くの人が物貰いに来るので、度重なることで、断るという事をするのです。それに対して幼いながら、母に内緒でご飯を持って、追いかけたという記憶が残っているのです。そんな姿勢に母は、見て見ぬふりをしていました。今は、社会保障がしっかりしていますので、余程の事が無い限り、このような事には出くわさないようになっています。
それでも、世のため人の為に生きようという気持ちは、私の心に、強く息づいているのです。少し前の世代では、六十歳にもなれば、御隠居様という事でしょうが、私の場合は、最前線で頑張ろうとする意欲はつよいのです。それは、子供達に苦労をさせまいとするのだと思うのです。そのような覚悟があるから、今でも無駄な生き方をしないようにと言う心掛けです。
ところで、私が独身時代で一番気にしていたことは、自分自身をあらゆる誘惑から守ろうとしたことでした。結婚してからは、妻と歩調を合わせるというがメインになりました。日々を何の気なしに送るのですが、いつも一緒であるという気持ちからは離れないのです。そうでないと力が湧いてこないというのも事実なのです。当然、日々仕事をしているという意識は無いのです。苦労をして築いた土台の上に、大きな繁栄が広がるであろうという確信を持っているのです。
私の妻は否定から入る習慣が出来上がっているのですが、それでも私の場合、受け入れようとするのです。それはいつも妻と一緒という概念を損なわないためだという事になります。もちろん不満はありますが、それは、自分に対する不満であるべきという気持ちを育てようと思っているのです。何か妻に不満がある場合でも、基本的には自分を責めるべきであるという気持ちを持つのです。その効果は何であるかというならば、謙虚に従順になることによって、私の人格を成長させるという事に繋がるという確信を持っているからであるという事になるのです。