2015年5月2日(八段語録2403)
わくわくドキドキに転換
若い頃は、ただ強くなるという事が極真空手に対する意識でありましたが、有段者になるにつれ、コンプライアンス体制を維持して、社会に迷惑をかけまいとする気持ちになってききました。というのも、ちょっと油断すると容赦なく心を手荒に扱うのが、この肉体という事に芽生えたのでした。私の心を保護しようというよりは、肉体の欲望のままに、肉体的な快楽を求めようとするのが、自分の体に内在しているという事です。心と体の葛藤は、いつの時も、ちょっとした悪さをしでかそうとするのです。それは、肉体的な本能の部分になるという事です。そのような葛藤を軽減させ、より心を強く持たせるための手段が、私にとっては極真空手という事になってきたのです。それは、肉体を管理するという意味合いも強かったのでした。
さて、自然現象の全てを眺めると、春夏秋冬、実に調和しているのです。季節に応じて、動植物を見ても、自然に調和をしています。この自然を見習って、気持ち平安に生きようと思うのですが、私の場合、心の声と体の叫びが不調和音になるのでした。それだから、心が理想や希望を抱いても、体は理想と希望とは、かなり隔たりのある行動をしようとするのですから、たまったものではないのです。ここに自己嫌悪の始まりがあります。夜に悪い事をしようとする誘惑は、目まぐるしく襲いかかってくるのです。幸いにネオン街には行きませんから、被害を最小限度に留めることになるのですが、それにしても気持ちは良くありません。それゆえに、自分の本心コースを極真空手の稽古に求めていくという必然性があるのです。
ところで、私が求めたのは、心の強さと肉体の強さでした。心と体が闘うのですから、私としては地上最大の闘争を試みたという事です。坊さんの修行とは、全く違ったやり方という事です。坊さんの場合は、断食やたく鉢、体を打つような事でしょうが、私の場合は、体を鍛えるという作戦になったというのが実際です。それで、心が体を制御できたかというならば、できるはずもありませんでしたので、目的をもって、全力で走りぬくという方法を手掛けたという事を試行錯誤し始めたのです。実に健康的でした。
結局は、誰も頼らないという方針です。善悪の判断も結局は自分ですることですから、心を清めて、良心に従うという戦略は、それなりに当たっていたという事でしょう。そして、強い心と肉体をもって、ワクワクするような気持ちを抱くという努力でした。それは結構、私の気性にあっていました。わくわく、ドキドキという、ときめくような気持ちを、掻き立てて歩むという事にしたのです。それだから、楽天主義者となり、結構刺激的な生き方をするという事に自分を導いているのです。