2011年11月19日(八段語録1505)

積極的人生観(78)
 子育てと審査会そして師の出版記念集会

 千順さんから子供の状況の事を聞かされます。大学へ通っている二人の娘に関しては、こと細かくクヨクヨ悩んでは相談を受けます。私は、絶えず聞き手に回っているのですが、原則的には、神が常に娘二人を守っていると思っているのです。かえって、千順さんが根拠らしいことを思い悩む方がかえってマイナスであると思うのですが、ここに書くだけにしているのが正直な事です。妻に話すと反論が返ってきます。間違いなく。
 私の場合、家出をしたのが十六歳ですから、自分の子供の事は言えないのです。家出した息子に対して、両親の凄さを感じることがあるのです。「お前もがんばれ、私も負けていないよ。」というのが解答でした。自分で人生を踏み出していく事に、完全に認めてくれたのです。私はそういう意味では、両親ならぬ神によって導かれていたのかもしれないのです。結果論ですが、家出するぐらいの子供の方が、いつまでも親離れできない子供よりも、よっぽど先の見込みがあるというものです。
 そして、東京からの電話での会話で、母は「親父は利口で、勉強したかったのだが家の事情ですることができなかった」と話してくれていました。そのような事を聞くと、いつの間にか親父に代わって勉強もしたいという欲求になっていったのでした。実に母の術中にハマったという事になるのです。
 そして何度でも書いているのですが、私にとっては両親の生き方こそが最高の教材ということなのです。私は、「親の言うとおりはしないが、親のするとおりにはしていたのだ」という事を思ってしまうのです。
 朝の10時から、グランディー21にて、審査会を行う事となっていました。小雨が降りそうな街路樹を会場に向かって進んでいきました。もう既に、子供達が待ち受けていました。基本と移動そして型は大友師範が担当し、組手は菅野師範が指導にあたったのでした。百名近い道場生が、緊張しながら二時間ビッシリ審査受けたのです。東日本大震災後、交流試合と審査会をここで行ったのですが、徐々に正常に戻りつつあるという印象です。白帯からオレンジ帯がほとんどでした。二階席でご父兄の方が固唾を呑んで自分の子供を見守っているのです。今回は会長が来られないので、私は、動くこともできず、微動だにせず審査を見守っていました。
 助け舟のように、市議会議員の博先生がお見えになりましたので、ちょっと肩の荷を下ろして子供達の様子を眺めていました。審査が終わって、最後の私の挨拶は、審査を受けてそれなりの内容をつけた先輩達は、東北のどの大会でも入賞するし、決勝戦は同門同士になってしまうという事を話しました。さらに付け加えて、極真会館の伝統は、素晴らしいものがあって、その内容を相続していくとしたならば、逞しい子供達に成長すると話させてもらいました。
その後、私達は玄関で道場生家族を送ったのですが、確かな充実感がみなぎっているのです。ご両親にも挨拶をいだだいて、これからどのように子供達を育てようかと頭を悩ますような気持ちになったのでした。
今日は行事が続きます。高橋史朗教授の出版記念集会が催されました。江陽グランドホテルの三階で行われたのでした。一期生として一人馳せ参じたのでした。もちろん、高橋史朗ゼミの一期生を度外視して進められていく事に、何か寂しさを感じます。現職の税理士は、史朗教授のお蔭で、税理士になれたという感謝の念があるので、人情からするならば、このような税理士を中心とするパターンは許されるのかもしれないのです。それに続くゼミ生は、ほとんど卒業生の税理士事務所出身という事からすると、無理からぬことです。このような集会に出席するにつけ、ダブルで科目免除でも貰って、存在感を示すこともできたであろうと思うのですが、ここは、幼い自分の心を戒めていました。
それよりも、自分には、高橋史朗教授に八年の間、指導教官として主事して頂いたという自負心があります。それを誇りに出席していたことになります。もちろん、史朗先生に対する尊敬の念と、慕わしい気持ちは今でも変わっていなのです。しかし、後から来た連中に奪われた感が残るのは致し方が無い事です。そんな思いの中で葛藤していましたが、司会から挨拶してくださいという、指名を受けたことで、一機に晴れたのでした。語ることは、純粋に学ばせて頂いたという事、さらに、マイウエイを歌って、今あるのは史朗教授のお蔭であるというメッセージを残せました。やはり、利害とは関係のない一番弟子の誇りを持ちつつ帰りました。決して二次会は、行かなかったのです。