2015年4月27日(八段語録2398)
苦しい時の親頼み
人生において、一生懸命歩む中で、結構きつい人間関係になる時もあります。そして、自分が辛い立場、悩める立場、気持ちはどん底に落とされるという事になったりします。その時に、自分だけに捕らわれていると、前に進まないものです。そんなときには、少し親の事を考えます。苦労してきた親の事を考えるだけで、このようなレベルではどうしようもないと思うようになります。そうすると不思議な事に、自分の苦労は、たかが限られている苦労であるし、恵まれた環境の中にあるのだから、たいしたことのないという事になるのです。その事がはっきり頭の中でわかると、自分はどのような行動を取ったらいいのかという事が示されるような気がするのです。私を育ててくれた親がどのような気持ちでいたかを思うと、その気持ちに報いていない自分であることがはっきりわかるし、少なからず、感謝の気持ちしかなくなるのです。
もしも、辛い事、苦しい事が目の前に迫っているとしたならば、いつも思うのは親の心というところで、十分解決することがあるのです。それゆえに、闘って解決して、勝利を勝ち取るという事に全力を傾けて、感謝する気持ちになるのです。大概悩みを抱えならが、時間が過ぎると、乗り越えていることが多いのです。「天は越えられない試練は与えない」という言葉が身に沁みます。親が育ててくれて、今私が人生に立ち向かう事ができるのも、一かが十まですべて、親からの期待の決定的な動機からきていると心底思うのです。だから、私が勝ち取ったとしても、親に感謝という気持ちを持たなければならないという事なのです。そうでなければ、人生恨み節になってしまうでしょう。
しかしながら、一瞬の苦しみ、悲しみを耐え忍ぶことができないというのも私であるという事です。結構身もだえし続けて、疲れ果てて、次の日起き上がると、もう何もしたくないと思うこともありました。そんなときに、親の事を思うのです。そんなあらゆる苦労を越えてきたのが親だと思うと、頭が下がるのです。そして、両親は、忍耐して人生を歩んできたのだろうと推測することができるのです。そう考えただけで、我慢できないと親に笑われるという気持ちにもなります。一つ一つを解決していかなければ、何に対しても責任を持つことができないという事です。そのような気持ちが前提にあって、そのレベルを維持しながら、一歩越えようと今日も歩もうと思うのでした。
四月だというのに、夏日になっています。異常気象なのでしょう。北海道では、三十度を超えたという事です。私自身を刺激しながら、どれだけの感動量、満足量を感じていけるかという事が、更なる挑戦です。先日購入したアップルウオッチが、今は刺激の対象になっています。健康管理とスケジュール管理、何よりも一日を楽しく料理できるような気がします。何事にも挑戦という事でしょうか。子供達からは病気が始まったと、からかわれます。それでも、新しい機能への挑戦がまた始まったという事です。何が変わるのかは、これからのお楽しみですが、何に対してもチャレンジという事でしょう。