2015年4月22日(八段語録2393)
弟子に恵まれて

 極真会館宮城県本部の道場生との絆は、空間的な距離や時間的な距離がありますが、気持ちの距離は殆ど無いと思っています。かつて仙台の中心街の一番町で稽古した道場生、地域を中心に各教室に分散して指導した道場生、どの道場生も私の脳裏には焼き付いている姿があります。今直接に指導をしていなくても、私の心は、昔とちっとも変っていないのです。稽古に熱中して、怪我をさせてしまったり、組手で痛い思いをさせたりという事でしたが、今では懐かしい事です。そして私の心身に確かに記憶されていることなのです。自分も知らずして、ふと思いだすことがあるのです。農作業中、畑の真ん中で、当時の思い出が恍惚たる気持ちにさせてくれます。道場生が指導者として敬ってくれているという確かな手応えもありました。
その時の女性の道場生もたくさん稽古に来ていましたが、今は懐かしく思うばかりです。一人のかつての道場生が、最近司法書士の資格を取って活躍し始めたという知らせも聞きました。当時大学生でしたから、二十年の歳月をかけて、努力を重ねて資格を取ったことに心より喜んであげたいと思うのでした。
 さて、私も指導者としてというよりも、開拓者としての歩みでしたから、苦労の道を歩んできたのでした。「もう一度同じ道を行ってみろ」と言われたら、とても無理としか言えない気がします。それでも、気持ちの上では、開拓の時から全てを心情的に引きついているのです。もちろん、今思いだすことができるのも、現在でも、当時からの道場生が指導者に残っているという事なのです。
そして、私の身代わりに今の極真会館宮城県本部を支えてくれているという事ですから、すべてがつながっているという気持ちにもなります。私の苦労を案じ、私の悔しさを、代わりに推進してくれている指導者が現れたということは、人生にとって掛け替えのない宝という事です。そのような事を思うと、どのような代価を支払っても惜しくはないという気持ちになります。もちろんそのようなお金は無いのですが。
 ところで、私の代わりに責任を持って事情に通じる指導者は、組織運営につけ、財務につけ、的確に実務能力を発揮しています。私の場合開拓者という事が強かったので、台所は火の車という事でした。それを整えて、人材と経費の有効活用を図り、無駄のない動きをしてくれるのです。開拓者は、往々にしてワンマンになりがちですが、その私をしっかりサポートしてくれているという弟子に恵まれたことは、至上の喜びの何物でもないのです。かつては、一人町中を彷徨いながら、心配しながら、極真の方向性を探ったものです。
 それで、今日の歩みはという事ですが、ジャガイモの作付がまだ残っていましたので、頑張って、最後までやり抜いたという事です。ちょうど畑の半分がジャガイモという事です。また夏野菜の準備に取り掛かるために、土の耕しから始めなくてはならないのですが、去年覚えた苗作りでしたので、今年は本格的に実際に植えていこうと思っています。自然は気持ちを癒してくれます。ありがたい事です。