2015年4月21日(八段語録2392)
実を結べるかな

 いつの間にかに還暦を過ぎても、人生を歩むことが出来ています。何の取りえもない私を守ってくれた周りの人達と先祖に感謝です。もちろん、これからも勢いをつけて、元気に歩もうと思っています。「千日をもって初心とし、万日をもって極める」と総裁が口癖に話してくれていました。ブログを書いてから万日という事は、あと四分の三近くあるという事ですから、頑張らなければと思いは強くなります。このような人生でも、誰かが必要としてくれるから生かされているのだという気持ちにもなります。まだまだ生命根性が根深く残っているので、燃える情熱で生きようと思うのに変わりは無いのです。まだまだやり残している事が多すぎて、この世に対しての未練はタラタラという事です。生活をするという事はできていても、愛情で暮らすということに関しては、まだまだ十分ではないのです。この前、明石家さんまのバラエティー番組を見ていましたが、三時間、十二分に会場を思い切り楽しませていました。芸とはいえ、愛情の投入は半端ではないと感じたのでした。
 思えば、私が、赤ん坊として生まれた時、元気であったと母からよく聞きます。そして、貧しくとも、前向きに前進してきた人生であると思うのです。季節の動きに拍子を合わせて生きてきたという事です。人生において、悪事に染まる機会は十二分にありましたが、運よく避けて通ることができました。そのような意味では、赤ん坊のような魂として今まで、そんなに汚れも知らず暮らせたという事です。これも極真空手のお蔭という事も言えると思います。若くして修行を積んだ為に、結構善悪の判断に対して敏感に反応したようです。そして、魂が純化された為に、若き日の決意や理念が、こうして現実の生活の中で生かされ、今も継続しているのですから、「若き日に汝の創り主を知れ」という言葉に共鳴します。
 ところで、還暦を過ぎて、自分がどのような花を咲かせて、実らせたのかという事実も目の当たりにします。一生が、若き日に出会った極真で、春を迎えることができ、人生を歩むにしたがって、実らせることができたのかもしれません。もちろん完成レベルではないのでもっと貪欲に追及しようと思うのです。今にして思えば、一つの花が咲いて実を結ぶために、夏と秋を通過して、一つの過程の中で成熟して実になってきたという気がします。一つの生命が投入され、実が結ぶまでに、春の季節、夏の季節、そして収穫の秋の季節を過ごしてきたのです。その時の根と幹と枝と葉っぱから生命の要素を吸収して、今に至っているのですから、実に充実しているという気持ちになります。もちろん、嵐吹き荒れて、生命力が途絶えようと思えた日々もありました。極真空手に専念するのですから、外的にはみすぼらしい恰好であった事に違いはなのです。それでも修行という悲惨な歩みをしても、この道を重ねれば、必ず天が保証してくれるという気持ちが根強かったのです。そして、いつも心の門を開いて、多くの人に接することが出来ました。例え裏切られていっても、さっぱりと忘れるようにしているのです。
 それはともあれ、今日も畑でした。ジャガイモの畝を立てながら、いずれ収穫の時に出会うのであろうジャガイモ君に期待してきました。まだまだ夏野菜の準備をしなければなりません。葉物は植えたのですが、ナス・キュウリ・トマト・キャベツ・白菜様々に植えるつもりです。