2015年4月20日(八段語録2391)
自分を誰が認めるの
自分自身を誰が大切に評価してくれるかというならば、それは、一番に両親や伴侶そして、兄弟であると思うのです。本当の意味では、誰も認めてくれない社会というのが現実のようです。それゆえに、家族を大切にすべきであるという事は、結局は自分自身を大切にする第一歩であるという事です。
何故ならば、両親は、身ごもった時から、生まれる日を心待ちにし、生まれた時には、大騒ぎをして、天からの授かりもののように大切にするのです。しかし、生まれてから、その望みの的が自分中心に考えて、外れてくるようになると、環境や事情で、大切にされていることを忘れてしまうのも、また自分という事でしょう。私達は思い起こさなければならない事は、自分たちの事情や置かれた環境に偏ってしまって、自分の目が曇って、なかなか本質を掴むことができなくなってしまうのです。このような思いが実に問題であるのです。
そのような意味では、自分自身の価値を絶えず思い起こし、今日自分の素晴らしさを、家族という反射体から悟るべきものがあると思うのです。私も六十数年の間の生涯を送ってきています。自分の全てを使い切った人生でありますが、誰が私の心を知り、誰が事情を知ってくれたのでしょうか。本質的に家族以外に誰もいないのです。当然、喜怒哀楽を共にし、悲しい時、寂しい時、嬉しい時、共有してくれたのは、陰ながらの家族であったのです。もちろん、全てでは無くても、共に生活をしているわけですから、それなりに決意の程を感じ取ってくれたという気持ちになるのです。人生に疲れ、踏まれ、押し付けられている時に、誰がそばで見ていてくれたでしょうか。いつも帰路につく家族の団欒という事です。
ところで、一生懸命に生きてきて、背後で尽くしてくれた家族に感謝しなければならないのですが、結構忘れてしまっていないでしょうか。「誰か本気で自分の事を理解しようとしてくれた人は誰ですか!」と問うならば、家族であると言いようがないのではないでしょうか。もちろん、過去の私の評価は、道場生や、多くの友人がしてくれます。しかし、現在闘っている姿は、近くの家族にしか見えないし、理解してくれないのです。そのためにも、家族の支えが必要であり、他愛のない事でも、いつも相談するようになっているのです。一生懸命に生きようとするのは、原点に家族の為であるという気持ちが強いのです。その為に日々、活動している自分であると思うようになっているのです。
今日は、母の妹の夫の七回忌の法要を営んできました。あの世に行った夫を、大切に思い、今も生きているように接している姿に、心打たれるものがありました。確かにもう地上にいない夫を、本当に理解している姿を見たのです。そして、尊く思っているのです。このような光景を目の当たりにし、自分を大切に思ってくれている人は、まさしく、家族であり、もっと、焦点を当てて言うならば、二人三脚で過ごしてきた妻であるように思えてならないのです。そのような場面に直面して、私の心に同調し、その心に前に頭を下げてくれている妻に、私はもっと感謝して喜ばなければならないと思うのです。そして、私が願われている天命に対して、それを成し遂げていこうとする努力をさせてもらう事に感謝のなにものでもないのです。私の心を探ることに徹してくれている妻に感謝です。