2015年4月19日(八段語録2390)
不愉快
人間として、不条理な事をやってのけるような団体には近づきたくないものです。そのような事件が起きて、半年が過ぎて、様々な思いが去来します。なるべく公的任務のみに専念して、時を過ぎるのを待つという気持ちになります。それが良心基準というものです。本来ならば、ボランティアとして、地域の安全・安心の為に歩んでいるのですが、今の気持ちは、「一人立ちても、尚強し」という事です。本来ならば、秩序が正され、その組織が大切で仕方がないという思いになるべきなのですが、そのような思いには、ならないのは残念な事です。その組織の人間関係も、円滑に触れ合うというような実体圏を体験すべきなのですが、悲しいかな、そのような事を配慮できないリーダーだった方のお蔭で、あまり気分の良い団体との付き合いができないというのはことさら残念です。リーダーの質は、問われなければならないという事です。
さて、リーダーの責任について考えたいのですが、雌鶏がヒナを抱えて、一人一人を大切にするという事を前提にすべきです。やはり、最大公約数的に、中心者は、慕われなければならないと思うのですが、当時、そのリーダーは、意見を吟味しようともしないので、私にとって、その団体で、ただの小心な田舎のオジサンにしか見えなくなってしまいました。少なからず、組織のハーモニーを考えると、一人一人を大切にするという事が第一条件という事になります。リーダーは愛情以外に結ぶ何物もないというような気持ちが必要であると思うのです。なぜならば、信頼されれば、何とかリーダーを支えようとするのが当たり前の、人としての良心であると思うのです。それは、理論でもなければ、正義でもないし、ましてや真理ではないという事です。それでは、人は動かないのです。結局、愛情と思いやりなくして、その組織を統括することなどできないという事です。
ところで、リーダーという人は、公的使命に駆り立ててくれる人でなければならないという事です。ボランティアとして、「いざ鎌倉」という思いでいる人に、役割をスムーズに、こなさせるような、ハーモニーを築く役割があるのではないでしょうか。リーダーは現場の部下に感動と感謝な気持ちを、与えていくような姿勢が必要であると思えるのです。組織が、円滑に運営されるという事と、共鳴できるような吸引力を持たなければならないと思うのです。そのような意味では、人を教育し、復活させ、使命を完遂できるように道を開いてあげることができなければいけないという事です。忍耐強く犠牲と奉仕そして許しの精神でもっていかなければ、人は従っていかないのです。当然私は追随する事に拒絶しました。決して快く思っていません。それでも、普通の社交辞令として顔を出しているだけという事です。ある人に対して教育ができない、方針に迎合しないからと言って、反逆行為、背信行為のように扱って、切り捨てようとするのは馬鹿げている言いようがありません。もっと、組織の役割について、研究する立場ではないかと思うのです。
今日も畑で、ジャガイモと野菜を植えてきました。実に楽しい一日でした。また人生に対しては、日々勝負という気持ちを抱くのです。総合的に決して今日一日に負けてはいけないという思いになります。戦い抜いて今の時を過ごさせていただいていることに感謝です。ジャガイモ蒔きは、日が暮れても、畑が見えなくなっても植えていました。