2015年4月18日(八段語録2389)
単純な事が必要
ジャガイモを植えるのと教室2つの指導をしてきました。朝からフル活動の一日です。朝日が眩しく、午前中はそよ風でした。午後からは、強い風に変わっていましたが、駅東交流会館と成田公民館に向かいました。ちょっと道場生には厳しい稽古だったと思います。道場の目的は、何かというと、信頼される人間性を育成するという事に変わりはありません。道場生の心がいくら変わっても、信じられる人間性の基準を築いていくというのが、私の原点という事です。誰も、最初はわがままです。その立場から信頼される人間性を構築しようとするのですから、実に大変な教育という道のりであると思うのです。その為に私の取っている戦法は、騙されても信じていくという固い決意という事です。道場生は自分の子供のようにかわいいのです。その道場生を信じることができなくても信じていく、例え騙されても信じていくというのが私の決意という事です。極真空手ですから、どこまでも真実であらねばならないという事です。そして、稽古は、純粋な人間にならなければ、一緒に稽古することはできないのです。
さて、両親は、例え信じられない息子・娘であっても信じてやるのです。そして、どんなことがあっても一緒に住んで、愛情を注ぐのです。その日々の積み重ねが、子供達が信頼される人間になるという事です。途方もなく大変な努力がいるという事です。子供を信じる、愛する、そして、一緒に生活をするという事は、簡単なような事ですが、実は大変な事なのです。実際、道場生は、どんなにわがままでも、私に向かって、愛情がある指導者であってほしいと思うはずです。そうだから、その道場生の気持ちに応えるべく、神様みたいな存在であらねばと思うのです。信じられない道場生を信じる。愛するのに大変な道場生を愛する。そして、私と一緒に居たくないと思うような道場生であっても、熱心な愛情を持って対応するのです。これが、私の基本的スタンスという事です。
ところで、そのような気持ちがなければ、どうして真心込めて指導することができるでしょうか。そのような姿勢を持つならば、道場生を感動させることができるのです。そのような姿勢であるから、道場に活気が生まれるのです。論語の教えを紐解いても、仏典を眺めても、結局は、信じて愛情を持って家族として暮しなさいという事を言っているのであって、人間とかけ離れた事を言っているのではないのです。単純な分かりやすい事を、難しげに経典は言っているのであって、そのような簡単な事なのです。しかし、これがなかなか実践できないので、家庭の問題が起こり、社会の問題も起こるという事なのです。私は、道場生に対して、引力になろうと思っています。道場生を磁石のように引きつけて話さない親のような指導者を目指しているという事です。
早速、ブログを書き始めて、今日の整理に取り掛かっています。日々を整理することで、新たなる自分の発見です。その発見が多ければ多いほど、新たな自分への挑戦の始まりという事になります。まだまだ、私には向上心が有り余っているようです。そのエネルギーを内外共に貯めこんで、更なる挑戦をしようと思っています。