2015年4月11日(八段語録2382)
頭は低く目は高く
総裁のビデオをFacebookで拾って、シュアしました。懐かしさを感じました。最初に総裁から直接指導を受けたのは、入門して十年過ぎてからでした。それでも池袋の本部道場で、四年間に渡って指導を受けたのですから、総裁の弟子としてそれなりに、悟り得たという事です。そして、極真の道を行く事を決意したのです。さらに、その奥義を追求した日々が続きました。そして、今があるのですから、たえず総裁が私と共にあるのだと感じるのです。
さて、極真の道で学んだことは、「頭は低く目は高く、口慎んで心広く、孝を原点として他を益す」です。儒教思想に基づく教えですが、総裁がいつも口癖に語っていました。頭は低くという事は、謙虚でありなさいという事であり、目は高くとは気高い意志を持ちさらに高い目標を持ちなさいという事です。もちろん、このような姿勢を崩さないようにと言う事をいつも語られていました。さらに心広くとは大きな心を持って怒りの感情に振りまわされないようにと言う事であり、孝を原点としては、文字通り親へ孝行の精神を持って、他を益するですから、世の中の為になる生き方をしなさいという事です。人として本当にあるべき行いの精神、基軸たる孝の精神を原点として、周囲に良い行いを施し、良い影響を与えて、社会に益する存在となりなさいという事を、口を酸っぱくして話しておられたのです。
そして、極真という修行の道は、自分の生命を投入するところなのです。生命を投入しないところに、極真精神は無いのです。投入するから修行が成立するのです。何故そうするのでしょうか。生命まで投入するという事は、第一の戒めなのです。そして、世の中の為になる生き方をするというのは、第二の戒めになるのです。考えて見てください。世界中広いといえども、男と女しかいないのです。当然男女は利他主義にならざるを得ないのです。男が生まれたのは女の為であるというのは、当たり前であり、それは真実であろうと思うのです。結婚式の時に二人が一つになって何をするのでしょうか。お互いが他を益することによって、愛情を養っていくのです。当たり前のことなのですが、それができなくて、離婚の憂き目にあう人生もあるのです。簡単な事ができないという事です。男が主人になって、家全体の為に一生を生きていく人が、中心者であるという事です。それが出来なくて崩れるのです。
極端な事を言うならば、百名の友人がいるとします。その百名の友人の為に一生の間生きれば、その友人の中心になるのです。それだから、組手をするのも、死なんとする者の如くに生きて、勝利せよという事です。極真精神は死を越えるべきで、越えなければ生きることができないという事です。このような極真精神は、強さもそうですが、人格者を社会に送り出すためにあるのです。そして、その精神によって、多くの人が巣立っていくのです。私もその一人という事です。
今日は、駅東での稽古、成田での稽古でした。ちょっと組手を入れました。「極真精神とは何ぞや」という答えを一人一人に考えてもらいました。初級の人には優しいのでしたが、経験者には厳しい稽古になったようです。それでも、私としては愛情を十二分に込めてして指導をしたのですが、伝わったのか、恨まれたのかは分かりませんが、良き稽古でした。