2015年4月10日(八段語録2381)
意地
何の刺激も無い人生より、山あり谷ありの人生の方が面白いとは思います。そんな生き方をする必要がなければいいのですが、私の場合、必然的にそのような状況に至ることがあります。これも、諦めない性格が災いしているのかもしれません。そして、そのような原因を作った存在との闘いはやめないのです。決着をつけて勝つまで、途中下車することのない自分の性格という事なのかもしれません。
私の場合、倫理的、道徳的な側面で、とても納得がいかない場合があったとします。それに対する姿勢は、孔子の教えを紐解くことでもなく、闘います。もちろん、相手に対しては呆れた気持ちですが、自分に対しては、否定として、捉えるのです。否定に追い込まれた立場は、自分自身で否定する事など、自分が可愛いので、できないわけですから、何かしらのチャンスと受け止めるようにする訳です。そのような意味では、倫理道徳に立脚しないような現象が現れた場合は、不正の者であると、自分で相手にレッテルを張るのです。
必ず弁償させなければならないという気持ちで、戦い抜くわけです。決して負けることができない勝負という事になります。どのぐらい長く続こうが、戦い抜く決意は、極真精神を持ったものとしての、当然の生き方です。
さて、私の場合、武士道という精神、特にこの極真空手で養った気持ちは、一生涯持ち続けることができる「宝」という事です。決して、自分の存在を破壊させてはいけないという気持ちは大きいのです。追い出そうとしても、損害賠償をさせ、多額の代価を払って贖いをさせなければ気が済まないのです。途中で妥協するという事は無いのです。これは、私の人生の生き方であります。私自身については、決して相手を攻撃することもなく、主導権を取ることも無いようにしています。それでも、私自身善良過ぎるくらいの人格を形成しようと思っています。役割を全うすることを決してあきらめず、留まらずに、ゴールを目指して歩み続けるのみです。もちろん、このような試練は受け止めるがゆえに、忍耐し、生き延びていかなければならないと思うのです。社会に役に立つミッションに就いているわけですから、地域を守るという使命感に燃えている限り、目標を持って耐え抜き、最後には生き残り、勝利するように努力するまでです。それが、自分の人生を自分のものにする道であると思うのです。
私の内的な魂の世界を表現してみました。それだけに、今の基盤が築くことができたのかもしれません。決して悪人にならず、人の道に外れず、周囲と強調していく努力は、人一倍強くしていこうとしているのです。公徳心のある生き方、有能な人としての生き方、そのような善人としての最高峰の生き方を実践することに、こだわるのです。このように自分で文章を書くと大分整理されます。そして闘いを推し進めていこうと思うのです。会長がこのグループを出発させた時も、同じような気持ちであったのだと思うのです。それだけに、私の先生、弟子、友人は、似たような考えを持った人が多いのです。そして、そのような人達に支えられて今があるのです。