2015年4月9日(八段語録2380)
武士道とは決死の覚悟
私には、宮廷生活のような生活は、ちょっと合わないように思います。歴史上に目を移すまでもなく、何かしら、武士道としての歩み方が、似合っています。私の場合、否定されると力が出るタイプということでもあるのです。叩かれて初めて気が付くという事なのでしょう。叩かれる事だけを見ると、負け犬のような姿になりますが、それが決して負けたわけではないのです。最終的に怠慢な自分を叱咤激励して、勝利を勝ち取るまで頑張るようになるのです。いつからか、私の戦法のようにもなっているのです。そういう意味では、私は怠け者なのかもしれません。苦痛と受難が溢れないとやる気にならないのですから、どうしようもない性根を持っているという事でしょう。それでも、私には、親がいて、師がいて、親戚がいるのですから、幸せ者です。そのような恵まれた関係を結んできました。それが、負けない理由なのかもしれません。
さて、生涯を考えると、あまりにも短いのです。もう私は還暦を越えていますから、人の寿命から考えても、もう終焉に近づいているという事です。そこで、時空を超越して勝ち取ったものと言えば、この極真空手の入り口の段階と、家族を中心とした愛情であるという事です。そして、私が認識することができない程、人生を多様に、絶えず早く作用してくれました。今にして、十代、二十代、三十代、中年、壮年、老年時代を経て思うことは、いずれ沈む夕日のように一生を終えてしまうのであろうという事です。このように表現するのは、「死」という意識をするという事で、人生の意味を知るという事になると思うからです。人生の価値はどのように知るかという事です。私のように、全日本に出場して、死に物狂いになって、生死の岐路に立つような中で、天にしがみついて人生の価値を打診しない限り分からないかもしれないのです。
ところで、私は、全日本に出場したおかげで、生死の意味を問い詰めることができました。死は歓迎すべきかどうか。死ぬのは何のためにとか。制限された人生をふり返るようにもなりました。結構自分の中では、試合に臨むときは、死ぬかもしれないと大騒ぎをして、眠れる夜を過ごしたものです。それでも、覚悟して、試合に臨むと、確かに死ぬような思いはするのですが、試合が終わった後は、生まれ変わったような感動を覚えたものです。そのような意味では、全日本が終わるたびに、第二の人生を与えられたような気持ちになったのでした。それは武道であり、生命のやり取りをした後の感動なのかもしれません。全日本に出場して、死の境地から解脱せずには、新しい人生の出発ができないようにも思ったものです。
また、書けば、真剣な話になります。すみません。今日も交通指導隊として、学童の安全を守るためにボランティア活動です。今日は昨日と違って、晴れているので温かく感じてしまうのです。何もこのような事を書く必要があるのかと振り返るのですが、自分の経験を書けば、何か役立つのではないかと思ってしまいます。昨日も講座の中で、よく書くと励まされました。毎日書いているような状態ですから、ありったけのエネルギーを、このブログに書き殴っているのでしょう。実に自分としては、充実しているのです。読む立場にもなってよと言われそうですが。