2015年4月7日(八段語録2378)
信頼できるもの
最近のイスラム国の動きに対して憂うることは、アラーの神によって、多くの人を殺害しているという事です。そのような意味では、宗教の短所が極端に現れているという事でしょう。もうすでに、盲信しているので止めることができないという事です。それも不合理による行動を共にして、良心と理性を抹殺しているという事です。まさに自己欺瞞であり、自己満足の領域になっているという事です。それも、聖戦であるといって、自ら自爆テロを行っても、御利益があり、救いがあるという事です。これは、最悪な宗教の短所であるといわざるを得ません。本来ならば、宗教の思想による道徳を向上し、平安や安心立命の境地に至らなければならないという事です。そして、福祉や奉仕活動をしていくべきものであると思うのです。
さて、こう考えると、おこがましいのですが、宗教の過ちを指摘しなければならないのではないかと思うのです。イスラム国だけでなく、一般の宗教でも、神ではなく偶像崇拝を行って、神木、とか動物とか、人とかを拝む、主観的偏見、抽象的な教理によって、運営されていることに、考えさせられるものがあります。正しい宗教は、本来ならば、敬天であり自我を信頼し、万民の為に尽くすという事を意味するものでなければならないと思うのです。そうすれば、宗教がなくても、有能有徳な人物になって、個人をしっかりさせて、繁栄の家庭中心に地域社会と共に生きれば、それが宗教以上の宗教であると思うのです。私は、極真空手を四十数年、道を追求してきましたが、道徳倫理生活により信義の人となる道を歩んでこられたのですから、それでも良い事と思うのです。
しかしながら、そのような事を言う私ですが、極真会館宮城県本部の基盤を作るために、信じられない道を歩んだのも事実なのです。信じられない立場で、信じることが、今の極真会館宮城県本部の基盤になったのです。信じて基盤を作らなければ、今の基盤はできるはずはないのです。まさに宗教に似た世界でした。そのような意味では、そのような道を行ったから、極真空手で多くの人を救う事ができるという確信があったのです。その救いとは、何を隠そう武道教育でした。私が普通の生活をして、今の基盤が出来るとは思ってもいませんでしたから、実際無茶苦茶な事ばかり進めてきました。普通生活の事をするならば、経済活動をするようになるのですが、私の場合、生活は度外視して歩み続けたという事です。今はどうかというならば、安楽な生活とは程遠いのですが、この武道のミッションを進めようとする思いは誰よりも強いという事です。
私の場合、この極真空手のムーブメントを進めてきましたが、天の利と地の利が合致して、途中で禿鷹の餌食にならなかったのでした。あっという間の創設の歩みでしたが、しっかりとした覇権を取って、更なる活動を展開しようとしているのです。盲信ではなく、合理的な精神で、この極真空手を広めることに全力を尽くす立場がありがたいと、思える今日この頃です。私は、「神仏を尊べど、しかし頼らず」の精神を貫いています。そして、これからの運動の原点を、教育であるという気持ちが強いのです。更なる努力を積み上げて、道場生の教育に全精力を傾けていきたいと思うのでした。