2015年4月6日(八段語録2377)
人の話を聞く
なかなか人の話を聞くのは難しい事です。自分の話は、時が過ぎるのも忘れて話すのですが、聞くとなると大変苦労のいることです。当然、私には、話そうとする人の心の切迫している様子を見ることができます。それであるならば、私は真心を込めて、人の話を聞かなければならないという事を真剣に考えるのです。それでも、私の場合、聞くよりも話す方が多いという事を念頭に置かなければならないと思っています。特に保護司の仕事をしていると、そのような事を十分に意識できるのです。特に犯罪に染まった人との面接は、生命を貴く思って、うそ偽りない心を持って、その人の話を聞かなければならないと思うのです。
さて、私は、空手の師範をしていることで、稽古のあいまに説教をし続けてきました。それも、結構準備して話をするのです。そして、いい加減な事を話すのではなく、その時にいる道場生に向かって、一生懸命話すのです。私の言葉を聞く道場生が、その言葉によって、復活するように導かなければならないと思うのです。本当に重要な説教であると思うのです。道場生にとって、どのような姿勢で歩むことが、生かされる道であり、無駄な人生の歩みはこのような事であると、断定的に話しているのです。私は結構心の底から訴える事にしているのです。
ところで、説教の内容は、もう何日も前から検討しているのです。道場生に何が必要で、今どのような事を話さなければならないかという事を真剣に考えます。頭の中に知識を詰め込むだけでは、説教には成りません。切実な気持ちを吐き出すようにしているのです。そのような気持ちを優先させることによって、たとえ、言葉が舌足らずであっても、内容が伝わるような説教をするのです。もうそれは、真実の心であり続けるという事に専念する以外に無いと思っているのです。最近は、正装して話す機会が多いのですが、かつての私は、空手着のままに話し続けていました。稽古の延長という事でした。稽古が終わってからですから、汗をダラダラ流しながら話したものでした。
そのような話を聞いて、育ってくれているのが、今の指導者達なのです。稽古は滅茶苦茶しましたが、それなりに、必要な説教はし続けました。それが、精神的な糧となって、極真空手の担い手になっているのだと思うのです。道場での汗を肥しに、よくここまで来られたものだと感慨深いものがあります。そして、これからも、説教は積極的に続けたいと思っているのです。それだけに、その説教を続ける意味でも、多くの人の話を聞くために、努力していきたいという事です。そんな気持ちを持って書き続けました。人の話を聞くというテーマは、私の自戒を入れての発想です。