2015年4月3日(八段語録2373)
現場主義

 人は色々な事を言います。それでも継続して実践していることが、その人を輝かせます。ところで、「極真空手は理想的です。師範のいう事は的確です。でも子供達と一緒に空手をするのは勘弁してください。」このような父兄も多いのです。そのような父兄に、私は言いたいのですが、もうすでに答えは得られていると断言します。道場生の子供達との距離を近づける最短な道は、一番苦手な事をすることなのです。それも、子供に良いと思って、始めさせたことですから、実践すべきです。父兄が「道場は最高に素晴らしいし、子供達も良く育っています。実に理想的な教育をしてくれます。礼儀作法もしどうしますし、感謝しているのです。しかし、私が空手をやることは、どうも・・・・」という事を思っているとするならば、このような事を克服すべきです。親子共々、最高の関係を築くことができるという事です。
 さて、一番自分が苦手とするところから、その家庭が繁栄する道が見つかるものです。非常に単純な事です。私の哲学は非常に単純です。一番苦手と思っても、子供達と一緒に頑張るという事です。そうすれば、どんなことでも克服できるようになると思ったのです。どんな障害も、立ちはばかることは無いのです。私は、四十数年に及んで、極真空手を実践してきました。そして、子供達と一緒に稽古をするようしたのです。その結果は明白です。実際、私は空手をしたいというより、必要であるから実践してきたのです。つまり、自分を修める為に、最良な事であると思ったのです。だから今でも続けているのです。振り返って考えて見れば、一番苦痛な事を率先してやり続けてきたのであり、それが人生を歩むうえで必要であると確信をしたからなのです。
 ところで、私が極真空手の門を叩いた一つの動機は、万が一女性問題で人生を台無しにしたら大変だと思ったのです。十代後半から二十代にかけて、愛情というよりは、性欲に満ちていたのです。ややもすると、身を修めることができず、狂ってしまうのではないかという自覚が自分の中に芽生えたのです。それだから、行きたくない道場、一番嫌な空手へと私は率先して実践したという事なのです。これは、ドラマの姿三四郎という柔道の修行を、何度も小さい時に見て、「好きになってはいけない恋に・・・」という歌の文句に影響を受けたという事なのです。人生の修行で、中途半端に恋に陥れば、半端者になってしまうという概念が叩きこまれていたのでした。
 それだからこそ、一番きつい稽古も率先してやりましたし、道場に通うために、どんな仕事でもやりました。やっていない仕事は無いくらいです。そこで、その仕事のプロ以上の事にもチャレンジしたのでした。ですから、この最前線で歩むという原則を今でも守っています。昨日も、畑の耕作も一人でコツコツとこなしてきました。このような実践原則があったからこそ、極真八段という位まで継続できたのであり、ここまで歩みは、歩んだ人でなければ分からないという事です。実践というのはどんな天体望遠鏡を用いても観ることができないし、原子顕微鏡でも見られないのです。今日は、実践という当たり前の事を書いてしまいました。