2015年3月31日(八段語録2370)
権力でなく、親心

 成田から仙台に向かううちに、十二時を過ぎてしまいました。栃木の宇都宮近くを通過した時でした。それから三時間半をかけて仙台に到着です。家に着いたのは結局、四時を過ぎてしまいました。疲れ切って、休んでしまいました。もう三月も今日を残して終了するのです。一月が行く、二月が逃げる、三月が去るという程に、あっという間の三か月という事です。色々な事を検討するにも、早く時間が経ちすぎます。それでも、今日も一歩というところでしょうか。さて、世の中を見渡す限り、争いが絶えません。他人であるという前提の範疇から抜け出せないでいる人々という事でしょう。私の場合は、日常生活の中で、時々刻々あらゆる場合に対して、家族という事を定規に置きます。内部での主導権争いという事ではなく、親の立場に立って、見つけていけるという能力を磨こうとするのですから、実に忍耐のいることです。多くの争いを制止するのは、権力ではなく、親の立場での解決がスムーズにいくと思うのです。
 さて、持論が始まったと思うかもしれませんが、主導権争いばかりしていると、常に限界にぶつかり、挫折を繰り返すように思います。平和運動の華やかな夢を抱いて出発しても、第一歩からつまずき、限界にぶつかり、人々に希望を与えるという事に至らないというのが、今までの権力者の姿であると思うのです。私は、権力や地位には固執しないようにしています。そして、自分が信じる道を究め、同志に集ってもらい、この輪を拡大していくという事です。誰に気兼ねも無く、突き進める道であると確信をしています。それでも、極真会館の師範という肩書は大切にしているのです。それは、権力闘争の為でなく、親のような気持ちの位置を確立しようとする試みなのです。
 ところで、家庭の根源を、世間に当てはめようとする試みは、時として、時代が変わったという事であり、六十歳の歳月をかけて、悟った内容なのかもしれません。やはり、私は理想論者のようです。現実を直視はしますが、自由と幸福を求めようと躍起になっているのです。良き世界の実現は、極真のこのグループからという意識が根強いのです。水が氷るのも一点からですから、この一点は、ここからであるという気持ちです。新し時代の幕開けをしなければならないと思うのです。新時代は家族主義の延長であると確信を持っているのは私ばかりでしょう。別に何の変哲もないのではないかと言われそうですが、それでも、私は家族の延長の道を行くのです。つまり、家庭の価値を実践して、多くの人に伝授するならば、醜い権力闘争など無くなってしまうように思うのです。親を目指せば、必然的に利己心は克服されます。そのように生きたいという決意でしょうか。
 結論として、万難を排して、親のような気持ちを持てるように、親としての代表師範を目指そうと思うのです。そうすれば、何か新しい景色が、見えてくるかもしれないのです。そう難しく考えずに、人生を通して親になるという道が、世界平和につながるという確信を持っていきたいという事です。単純だと思われますが、いろいろ考えて、このような結論を出しているのです。不思議ですね。