2015年3月27日(八段語録2366)
反省・修身・感謝
最近強調していることは、今は言葉の時代であるという事です。言葉を用いずに指導する事ができるかというと、それは難しいのです。かつては、後姿で人を導くような事を指導されましたが、否定はしませんが、マイク一本持って道場生に向かって、理念を話せば、理解してもらえるのです。悲しい話をすれば、多くの人が泣いてくれるのです。もちろん、おかしい事を言えば、笑うのです。そういう意味では、いい時代に入っているという事です。だから、何を言いたいのかというならば、言葉は尊いという事です。その言葉を駆使して、空手道の何たるかを訴えるという事は、当然なのです。それを理解しない指導者であってはいけないという事を最近は話しているのです。
宮城県本部の場合、さきがけ、私は、二千五百回に及ぶであろうというブログを発表しました。それは、迷信でもなく、妄想でもなく、極真空手と共にあった人生の理念という事です。今まで、見せるものは、アクロバット的な、人間離れした注目をひくもので、世間の注目を集めてきたのです。その時代は良かったのですが、これからは、理論的であり実証的な内容として示していかなければならないという事です。極真神社を作って、お参りすれば、奥義を知ることができると思いますか。それは、理解不能な事です。だから私は思ったのです。「書こう」という事です。言葉として残しておこうとしたのです。書いた内容は、時間と空間を超越して、理解することができるのです。それは、これからどのような世代の人達でも、早くキャッチする「装置」のようなものです。だから今一言書いておけば、残るのです。もちろん、下品な言葉、悪口もあるでしょう。それは、そのような下品な言葉に対して、自分で戦う以外にはないのです。口を開ければ、為になる実際的な言葉を残すことなのです。それが極真空手にある指導者の役割であるというのです。
そうするためには、どうしなければならないかです。絶えず反省をするという事です。これは、赤ちゃんにはできないのです。もちろん、入門したばかりの道場生にもできないのです。自分の事だけで精いっぱいという事です。それができるのは、三年を過ぎて、昇級し始めてからという事です。その期間、何をしているかというと、修身です。自分で自分を収めるという作業をするのです。この修身に対しては、極真空手は、真剣なのです。人格レベルが成長すればするほど、天のため地のため、多くの人のためという事ができるようになります。要するに自分以外の人の為に貢献することができるようになるのです。こうして積み上げていく人生が、極真と共にあった人生として残してもらいたいのです。もちろん、最後に残るのが感謝という事です。
結論として、極真空手を習う目的は何かというと、人格の成長と完成という事になります。多くの人は、体と顔つきは大人なのですが、心は赤ん坊なのです。つまり、自己中心の欲望に渦巻いて、及ぼす影響は悪いものばかりです。確かに、社会的インフラは天国のように住みやすい環境になってきました。しかし、人の心は、著しく成長が止まっているのです。御利益や迷信に頼って、自分の修身に関しては無関心なのです。これに対しての挑戦をするのが、私達手塚グループという事になるのです。かつて、手塚会長は、私は神なのだと真顔で話していました。私は笑い飛ばしていましたが、今はそうは思っていないのです。それは、会長がどのような歩みをしてきたかという事をふり返るたびに、素晴らしい良き影響を与えてくれたのです。それは正しく、私を導き、今の立場まで指導してくれたのです。それは、結局、神にしかできない事のように思えるのです。私にとっては、仏様よりも尊い方という事です。