2015年3月26日(八段語録2365)
当たり前の思考

 人は肉体をもって、ふと一瞬、たちまち消えてしまう朝もやの如く、束の間の、はかないものであるという事に、なるのではないかと思うようになっています。歳でしょうね。それだから、権威によらず、迷信によらず、客観的にもの事を検討できる能力が必要になっているのです。漠然とした事を中心に考えるのではなく、私達は、極真空手という実証できる武士道を修行しているという事です。それは、とても重要な事なのです。伝統空手のように、こうしたら相手は倒れるはずであるから一本という漠然とした発想ではないという事です。あくまでも実証的な、そして客観的なものになっているのです。これは、素晴らしい事であると、思っているのです。こうであろうと、言う事は誰でも言えますが、どのような考え方もできます。しかしそれが証明されなければ、科学的ではないのです。その実証を極真空手は実践しているという事です。
 さて、私は、迷信や習慣的な惰性や言伝えに関しては、あまり関心がありません。もちろん、神という権威を持って、御利益的な事に関しては、閉口してしまいます。また、色々と、聖書や、仏典が説明しているのです。私も東北学院大学で礼拝に出席してきましたので、それなりの宗教学とかを勉強してきました。その学んだ内容が、どのように実証されるのかという事に関しては、全く確証のない事を、牧師は話しているのです。全く理論性が無い話が続きます。それが、私の人格にどんな影響を与えて、どのように活用できるかという事に関しては、何ら解答が無いのです。それは、私にとっては、知識の量にはなりましたが、時と共に忘れてしまう事です。そのような事を、信頼しなさいという事がむちゃくちゃというものです。力も出ませんし、確信に至らないのです。
 ところが、私の場合、人生において最高の秘密を発見した事になるのです。死ぬつもりで極真空手に取り組んだのです。そうしたら、最高に生き生きした人生が待っていました。これは、稽古で骨髄まで染みて痛感したという事です。一度ならず、何度も何度も、自分の生命を失うのではないかという、武道の道を歩み続けました。そのような険しい道が、結局勝利への唯一の道であるという事を実証したのです。修行の各段階において自分の生命を捨てきって歩まなければ、昇級もしないのです。私の場合、二十歳から、二十八歳までの期間、がむしゃらに、ただ命がけに、勝利的に歩み続けた修行の道であったという事です。そうして、困難に打ち勝って昇段審査に臨んだときに、突如として私の前の世界が一変して、極真の魂が自分を守っていることを感知することができたのです。これは、実証的な事でした。そして、理論的にも自分の心身に刻まれていることなのです。これが私の有段者への道でした。
 この歳になっても、この実証的で理論的な極真空手という真理を啓蒙する使命があると確信しているのです。無条件に全面的に生命を投げ出し、完全に死に切っても、闘える人生を貰ったという事です。そうしてこそ、自分自身が一体何者であるかという事を、自分の本心で悟ることができるというものです。そのような、真実に立脚した人生は、極真空手でなければ、味わう事ができなかったのではないかと思うのです。そのような意気を感じて、今の人生があるのですから、幸せ者です。真剣に歩めて、日々自らを発見し、一日一日を新しき日として、発展していく事ができる日常生活になっています。感謝です。