2015年3月22日(八段語録2361)
駅東交流センター

 数日前に、駅東交流センターの開所式に参加しました。故郷の仙台高校に通っていたその頃、榴ヶ岡地域という駅東口を、新聞配達で回っていました。仙台駅東口なのですが、二十人町、鉄砲町という町名が残っているように、昔の伊達藩の城下町でした。当時市内を市電も走っていたのですが、もったいないと思って、電車には乗らず、雨の日も風の日も自転車を走らせて学校に通っていました。蒸し暑い夏の日は、汗をたらたらと流してペダルを扱いたり、寒い冬は霜焼けになりながら、5キロの道のりを走らせていました。当時、新聞配達をしたのは、学費を稼ぐためでした。PTA会費と学費を合わせて1500円でしたが、そのお金を稼ぐという事だったのです。その時のバイト料が3600円でした。そのバイト料を全部、母親に渡していました。考えれば、苦学生のような高校時代を送っていたのです。それでいて、親父は天下の太平住宅でしたし、我が家では下宿業を営んでいましたので、貧しいという事よりも、金銭は大切であるという事を徹底的に両親から教育されたのだと思います。
話を元に戻して、何の話をするのかというならば、その駅東に町内会管理の交流センターが開所して、その場所を、子供達のために稽古に使用することができるという事になったのです。若き日に一軒一軒新聞配達をした昔がありましたから感激はひとしおなのです。
 4月4日土曜日に極真空手教室が開校することになりました。この新聞配達をしていた榴ヶ岡地区の一画がが、空手教室になるとは思ってもいなかったので、過去を振り返り感慨深く感じ入っていたのです。その時の私の精神状態は、かわいそうな人に出会うと、足が止まってしまい、助けてあげるのでした。親にも、よその人にもいい子であったのかもしれないのです。開所式で思った事は、高校時代に新聞配達をして尽くしてきたので、この町内会から五十年近く経って、大きくこの街に、返されたのかなと思うのです。陰徳が数倍になって返ってきたように思えたのです。私が、新聞配達という事で、どれだけ貢献できたかは分かりませんが、大事なのは、この街に新聞小僧として、一生懸命尽くしたという事なのかもしれないのです。そして、今から受ける恵みを、今度は、子供達に空手道を通じて、施そうという気持ちになるのです。
 今日は、根白石の畑を耕作してきました。温かい日差しで、鍬を持って耕すと、汗が額から噴き出るようになります。薄着をして、取り組むのですが、それでも汗まみれです。耕運機で土を耕して、畝を立てて、そこに肥料を蒔いて、ジャガイモの種芋を切って埋めるのです。それを完了して、妻に連絡を取ったのですが、早速、一か月早いと怒られました。それでも、今年は暖かいので大丈夫ではないかという気持ちです。それが間違いの元と言われそうですが、もし霜にやられてしまうようでしたら、もう一度蒔けばいいという楽天的な発想で、畑の作業を終えました。新聞配達にも畑の耕作にも言えることなのですが、一生懸命に投入するならば、必ず、恩恵が巡り巡って報われるという事なのかもしれないのです。