2015年3月21日(八段語録2360)
どのように修行は成るのか

 今日は、船釣りに出かけました。朝五時出船して、一時間程で、到着、そこから、釣り糸を垂らして、カレイ釣りに挑戦です。釣り糸を垂らして、六時間は休むなしで、釣り続けますから、自然と親しむというよりは、修行に近い釣り方です。それでも結構楽しみました。遠くに水平線が見えますから、地球は丸いと感じます。空に向かって、上を見ると、太陽が春の日差しに輝いて、白い雲が、空の青さの間を通り過ぎていきます。海原と青空が直角に交わる接点で、しっかりと青空に向かって立つ自分、そして、目線は竿の先から水平線を見つめているのです。このような位置が、心身が大地と90度に連結されているという感じを受けるのです。つまり、東西南北、上下、高低としっかりと地に着いているという気持ちです。このように設定されると、心身が、釣れようが釣れまいが、シャキットしてきます。
 こうしているだけで、自然に同化して、いつの間にか、自動的に、お釈迦様の境地にでも至るようになるのです。すなわち「天上天下唯我独尊」という事です。このような状況に立つと、何か秘められた奥義を見出すような感じさえします。学んできたことが、ひらめきとして、自動的に脳裏に浮かぶのです。真を求めていくという事は、このような状況の時に、第六感として見出されるのかもしれません。つまり、このような境地が心と体が共鳴するという事でしょう。そうすると、ちっぽけな人間関係の歪みとか、全ての煩いごとが消えてしまうようです。これが、私の釣りに出かける理由なのかもしれません。ただ釣りに出かけるというのではなく、もちろん釣果も期待しますが、それ以上に、自動的に真理に通じてしまうような修練の一端になるのです。
 ところで、私は、今まで鍛錬してきた、極真空手で、至上の境地に至ろうとする壮大な思いを抱いているのです。歴史を見据え、時代に叶った生き方という事です。その境地に入れば良いと思っています。それが理想的生活をする為の環境的な要件に繋がってきます。何を隠そう、人生における最高の奥義は、家庭にあると思っています。全ての人と愛情でつながって、縁を結び、全てに通じていくという事です。そのような事から、釣り中も六人と、下船してから、昼食を囲みながら、様々な話をしていました。決して高尚な話ではないのです。それでも、心は喜んでいるのです。その時は、もうすでに一人の釣り人という事になっていて、極真会館の師範だからどうのこうのという事は一切ないのです。公的な位置を、さておくと、親しみの溢れる友がそばにいるという事です。実に幸せな事です。もう肩書きとの付き合いではないのです。そんな友人が自分にはいるという事が何よりの宝です。
 だから、どのように修行するかという結論は、修行スタイルは様々あると思いますが、同じ仲間と最終的に分かり合い、お互い関係を結び合い、お互いに何かを話すと、上下の隔たりもなく、ひたすら戯れ合う関係という事になる為の修行にするという事です。結構きつい事も言われます。それも快く受け止められるのは、仲間という意識があるからという事であるとおもうのです。今日は私の修行の一端を表現してみました。高い位置に立ったから、孤独になっているのが英雄であるとか言いますが、それは寂しい事です。仲間が共に戯れ合う関係が修行の結実であると思うのです。