2015年3月19日(八段語録2358)
良い人

 昨日は、夜遅く帰って、夕食をしていたので、妻の千順さんから、いきなり怒られました。「こんなに時間に食事をするなんて考えられない」という叱責でした。確かに夜中の十二時を過ぎていましたので、千順さんの怒りが収まるまで、黙ってお説教を聞いていました。それでも、私を思っての事であるので、何の弁解もすることなく、時の流れを過ぎゆくままにという気持ちでいました。彼女の言い分は、大黒柱の私が倒れたらどうするのという事と、こんなに薬を飲んでいる人など、近所にいないという事の二点で迫ってきました。自覚もするし、そうして心を使ってくれる妻に感謝の気持ちで、時の過ぎるのを楽しんでいました。このようにして、妻から怒られるのも、共に生きる生活の典型と思っています。夫婦として相互信頼と愛情の土台があってこそ、お互いに信じて助け合って、一つになって暮らす夫婦の姿であると思っています。それにしても、いつも怒られるのは私の役割のようです。
 三十数年の長い付き合いで、根っこも生えているし、幹も太くなっています。そして、愛の結実の子供達も元気で頑張っているという事ですから、何をどうのこうのという事ではないのです。生活の典型は、当然家庭です。私のような家庭は、地域に根っこが生えていて、地域に定着しているという事です。そして、祖父母と父母としての私達と、子供達、そして八月には孫の誕生を迎えるのですから、家族四世代が定着するという事になります。もちろん、未来の根っこは孫でありますから、埴生の宿ながら、平和の宮殿を立てて暮らしているという気持ちになります。このように四代になろうとする家庭で、暮らすという事ができるという事に誇りを持てるのです。結構、我が家は、下宿をしていることもあって、よく人が出入りします。懐かしく思い、再び訪ねて来てくれる人も多いのです。このような家庭であるから、自分の仕事に関しても責任を持って歩めるのだという気持ちになるのです。
 ところで、妻のおかげで、文句なしに、雪が降っても、風が吹いても、季節が変わって、春になっても、冬という季節を忘れて、極真の道を開拓してきた生涯であると思っています。その生涯の道を、途中で千順さんに参入してもらったわけですから、色々な面でサポートされたという事なのです。極真精神ですから、目から、鼻から、口から、涙が、鼻水が、よだれが流れるのです。この三つの水を流していくような人生であるという事です。これは空理空論ではないのです。極真空手というしっかりした武道精神なのです。これを一生かけて追求し、成し遂げた分だけ、教えるような立場に立っているのです。実践してみて、話すのですから、説得力は抜群なのです。そのように偉そうな事を表現できるのも、結局は「千順さんのサポートでしよう。」と他の人から言われたら、それで万事休すという気持ちになります。何の誇ることもできなくなってしまいます。
 こうして見れば、道場生は反省してみましょう。自分はどのような自分であったか、もちろん自分の事を説明しなくてもいいと思うのです。説明しなくても良心は知っているのです。まぁ、ぶつぶつ不平を言ったり、批判したりする自分を反省しましょう。自分は果たして、妻の前に面目を立たせる自分であるかという事です。私は、妻に一瞬の疑い、一瞬の悩み、一瞬の苦労をかけてはいけないと思うのです。道場生の指導者も、立ち止まって考えて見てはいかがでしょうか。