2015年3月18日(八段語録2357)
日々大切に

 人生六十年を過ぎて、喜怒哀楽が入り乱れるという歳月でした。結構、眠る時間を割愛して、生活で時間を惜しみながら、生きてきましたが、自分が管理したと実感できる時間はわずかであると思うのです。何度でも書くのですが、ファイナルカウントダウンに近づいて、自分自身が火葬場で焼かれる瞬間に、全ての生涯の思い出は一度に泡となって消えるのでしょう。そして、私の場合、極真会館で取り組んだことのみが、自分が後世に残せる痕跡という事です。人が生まれて死するまで自分の意志という事ではなさそうです。私が自分の運命に対して、振り返れば何の選択の余地もなかったのだと考え深く感じるのです。ましてや、自分の思い通りに生きたという事を考えると、否と言う結論です。人生という事をふり返ると生きるのも、死ぬのも、何の権限もないのです。それでいて、自分は優れているという事を主張できるかというならば、そのような筈はないのです。
 そうすると、自分自身が生まれたいと思って生まれることもできず、自分だけの何かを最後まで持つこともできず、死ぬ事も避けることもできない人生ですから、何かを誇ってみてもわびしいだけだという事です。例え人より高い地位に上がったとしても、一瞬でしょうし、財産を蓄えても、死の門の前では一切合財捨てるのです。財や名誉や学識、それは全て時と共に流れて、過ぎればすべてなくなります。徒然草の文言を借りるまでもなく、「行く川の流れは絶えずして、しかももとの川にあらず」という事でしょう。命が尽きた瞬間に終わってしまう哀れな生命という事です。そうすると、自分が生まれた動機と目的は何の為であったのであろうかとか、「人生いかに生きるべきか」という事に対して感慨深くなるものです。
 何か湿った話になっています。今日は気温も上がって、晴れていたしと思うのですが、書いている内容は結構重いものになっています。その時に広く考えようと、自然を眺めます。
仙台の泉ヶ岳に積もった白い雪が解け、渓谷を下って七北田川の流れとなって、太平洋に注ぎ込みます。太平洋に流れ込んだ白い雪は、温かい太陽の光を浴びて、再び空に昇って、白い雪になる準備をするという事です。人の生命もこのようなものだと思えばいいのですが、ちょっと執着が私にはあるようです。還暦を越えていますから、死を考えないままに、生を語れなくなっています。保護司をしていることもあり、最も大切な事は、罪を犯さないという事が染みついています。何が罪かというと、宗教的、哲学的な論争をしようと思わないのです。はっきり法律に則って、良心が躊躇するような事はしないという事です。
 何か結論が出るものではないのですが、極真会館の発展に力を尽くすという事で、限られた時間をしっかり使い切るという事を考えようと思います。時間の使い方によって、二倍にも三倍にも豊かな人生を送れるというものです。時間を必要に応じて細かく刻み、一瞬でも無駄に使わず、頑張れば、人生は貴いものになるはずです。今まで世の中の、あらゆる人と物が通り過ぎていきました。そう思って、私が選択できるものは何かと考えたのですが、唯一の妻を選択しました。そして、愛情によって生まれた子供達と、愛を分かち合って生き、愛情の中に帰っていくのが私の人生でありたいと思うのです。