2015年3月16日(八段語録2355)
手塚グループの存在意義

 人生最大の精力を傾けて、苦労してきた結果として、このような手塚グループという極真会館の基盤であるという事を思い起こすのです。このグループがどれ程素晴らしいかを、表現していく為の努力という事になります。そのような意味では、どんなに横っ腹を槍で突き刺す批判があろうとも、「カエルのションベン何とやら」で越えていく事ができるという気持ちを持とうと思うのです。心の中で、色々な事情を越えてきたという気持ちにもなりますが、これから、それ以上の成果を出していく事に終始していくという事を考えます。
六十数年の生涯を経ながら、瞑想の中で、どれだけ多くの人と関係を持ってきた事かと思うのですが、出会った人々を懐かしくも思うのは自然な気持ちであると思うのです。今取り組んでいる、極真空手というミッションに対して、基盤を最初から積み上げてきて、着手してきたこのグループに対して、完成せずに途中で終わるとすれば、心残りになるものです。それだけに、完全に仕上げていきたいと思うのです。
 さて、この組織は、単純に空手の技術だけの指導するような存在でないし、それだけを求めていくとするならば、このグループには必要は無いのです。人は、空手道の枠で測ることができないほどの無限な伸縮性を持った存在になれるという事です。だから、極真空手だけの物差しで道場生を測れるわけはないのです。人は無限に伸びていく事ができるし、限りなく収縮していく事もできるのです。大自然を眺めながら、大きな気持ちになったり、アメーバーの動きに神秘性を感じたりするのです。そのような意味では極大から極小に至るまで、全宇宙の法則に、「動じ静ずる」ことができるという不思議な感情を持っているのです。
 ところで、色々なニュースを見る限り、愛情と恨み、幸福と嘆き、希望と絶望、生命と死亡、あらゆることに、正反対の事が起きるという事に悲しみを感じるのです。このような事を蹴飛ばして、嘆かわしい事を掃き捨てて、人間本来の探求をして、歓喜の声を上げたいと思うのですが、このグループに所属に存在したからとて、そこから抜け出していくという事にはならないのです。それでも、良き関係の家族を築くならば、歓喜の声を高める群れには、近づくのではないかと思うのです。そのような微かな望みを抱く人にとっての救済のグループでありたいと思うのです。それゆえに家族を主張するグループとして、今まで活動してきたのです。成果は当然、まだまだという事です。
 今日も地道な歩みです。四月オープンの二つの教室に対して、案内のパンフレット作りや、人材の配置、指導時間、指導内容と様々な事を考えていくうちに、時間が過ぎてしまいました。今日も良い天気でしたので、風が収まるのを待って、畑に石灰を蒔いて、土壌つくりをしてきました。季節は巡ってきます。この春に成すべきことを取組で、準備する時だと構えているのです。多くの新しい道場生を迎えていく為の準備を少しずつしているのです。新しい家族を迎えるという思いです。そして、しっかり教育して、社会に還元できれば、私の役割の大部分を消化するという事です。春のような陽気に誘われて、実践したいことと、怒がこみ上げたことと、二面性に渡って今日は表現してしまいました。とても聖人にはなれないという事です。