2015年3月16日(八段語録2354)
立つ瀬を失わない人生

 人生に関しては、誇りを持って歩みたいと思うのです。自分の本分が果たせない時には、悔しくて仕方がありません。多くの事情を鑑みても、指導者は、人間関係において、配慮しなければならないという事です。その指導者が、高い評価を受けようが、私にとっては、配慮のない指導者に関しては、誇りを踏みにじった人物にしか思えなくなるという事です。その指導者に忠告です。プライドを持って歩んでいる人を、ないがしろにするような、ことは避けるべきです。私も人生終盤に差し掛かっていますので、骨髄が解けるような気持ちになりたくないと思っています。自分の役割を果たそうとする気持ちは、大きいので、後は私がどのような態度で臨むかという事です。もちろん、このようなブラックホールにハマった場合における自分の態度は人格面において、少々痛手になることは間違いない事ですが、それでも、誇りを持って人生を歩むということに関しては仕方がありません。ゆえに、これから私がどのようにするかという行動プランが算出されます。それは立つ瀬を失わないためです。
 さて、私の場合は、地域社会の為に貢献するという意識で、地域の人達と共に歩もうとするのです。しかし、このような気持ちは払しょくしてでも、地域貢献に対応しなければならないという事です。当然、私の心を解放する為の戦略は練ろうと思いますが、人を押しのけてまで、プライドを維持しようとは思わないのです。もちろん、私の気持ちは、自分の手で解放しようと思うのです。束縛された自分の心の解放に立ち上がるのも、自分自身の役割という事です。もちろん、私がなぜ悔しいのかという事も分析するのです。自分の本業とする極真空手の修行に関しても、かつては、そのような悔しさを味わったこともありました。極真空手の事を知らない人が、オーナーというだけで、滅茶苦茶な指示を出し始めたことがある人がいました。この時も、あらゆる知恵を使って、急場を乗り越えたという事を思いだします。
 ところで、人生苦労すれば必ず未来に希望が保証されるという気持ちになります。別に手塚グループの副会長という立場を奪われたことでもないので、関係がないと思えばいいのでしょうが、できるだけ地域社会に関して貢献しようと思うがゆえの、葛藤もあるという事です。本来ならば、ボランティアの世界であり、自由な役割であり、その中で貢献できる立場を感謝するのであり、生きがいとして歩んできたという事なのですが、そうはいかないのが人生という事でしょう。別に、戦国時代でもあるまいし、首をはねられるわけでもないし、自分の理想を失われるわけでもないし、自分の家庭を奪われるわけでもないので、過ぎ去るのを待てばいいだけの話です。しかし、そのような事に甘んじて、弄ばれるのは、ご免こうむるという事なのです。
 結論として、このように自分の心を表現できる時代になっているという事は、ありがたい話です。これも世界に発信できるのですから、大変な時代です。つぶやける時代であり、このつぶやきが、新たなるエネルギーとして、自分の人生を推進していくのですから、感謝になります。もちろん、読んでくれて賛同を頂きたいという事でもないのです。赤裸々な私の気持ちを書き綴っているという事だけです。格好良く指導者論をブチかませばいいと思うのですが、人間ですから、こんな事に足踏みしているのかと思っていただけばいい話です。