2015年3月13日(八段語録2351)
追求

 今日も極真空手宮城県本部は、真の空手指導者を育成しています。もちろん、個人を探し求めようとしているのではなく、道場で稽古をして、一人一人が真実な自分を形成するという事です。道場生には、本当の自分自身を見出す努力が稽古であると話すのです。色帯で修行を辞めてしまっては、何が本当の自分なのか分からないのです。免許皆伝まで進んで、何かを見出すというぐらいの修行は必要です。稽古は何か分からないうちに、自分の本当の姿を見出そうと身もだえすることであると思っているのです。ある学童が、多動性を理由に特殊学級に編入を親は面接されたと聞きました。そのような事で、一般の教育を受けられないとするならば、とんでもない事です。道場では、落ち着きがないという幼児がいるとしても、いつの間にか、稽古を通じて礼儀作法を体で感じてしっかりしていくのです。道場では、こういう状態までの、トレーニングができるノウハウを持っているのです。
 さて、今日は、稽古を通じて探さなければならない自分という事を考えて見たいと思います。今の自分が心技体において未熟であることを、まず認識すべきなのです。これは容易に分かります。というのは、空手の基本も型もなっていないのです。ましてや組手に至っては、弱くて仕方がありません。これはどういうことなのかというならば、実際の自分を、空手道というカテゴリーでしっかり見てもらうという事です。内容のなさを実感しない事には、次のステップへは上がれないのです。そこから、強い自分を探そうとします。当然身もだえするような日々を送りながら、本物を見出す努力が始まるのです。私は、誰を探そうとするのでしょうか。当然個人ではなく、自分自身を探し求めようとする道場生に接点を持とうとするのです。世の中の犯罪の多くは、自分探しに失敗して安易な道に走った人がほとんどなのです。
 ところで、道場は、すなわち、「私」を完成させるためにあります。ある程度自由になり始めて、闘える道場生には黒帯を授けるのです。これがまた、出発であるという発想ですから、人生そのものを極めなさいというメッセージになると思うのです。そのようにしなければ、一人の信頼できる人になることはできず、良き家庭を築けず、社会にも貢献することができないという事になります。これが、あらゆる段階の出発の基準となるはずです。私のある道場生たちに対する気持ちで、悲しみを覚えるのは、他の流派に行って稽古をしたら、もっと良くなるという幻想を抱いて、移って行く人達です。要するに、隣の芝生は青いという事です。移って行った人の中で、認められるレベルに達した人は、一人もいないという事です。もちろん、残念さと悲しさは私に残りますが、仕方がない事です。
 結論として、道場生が自分探しをするとするならば、どのようにしなければならないでしょうか。先輩や指導者を見習って、反復して求めていかなければならないという事です。そうでなければ、道場生としての本当の自分を探し出すという事はできないのです。こんなことを言ったらどうかと思うのですが、封建時代にはできなかった自分発見です。自由が無かったのです。今は、どの家の出であるとか、何とか関係がないのです。思い切って、私自身を探し立てるために、あくなき挑戦を、この道場で追求していきましょう。このような道場を私は、開拓したのです。しっかり稽古してください。