2015年3月12日(八段語録2350)
根本精神

 社会に認められている極真会館という事ができるかというならば、まだまだ不十分であると思っています。そこには、キーワードがあります。社会貢献と奉仕です。稽古だけして、奉仕活動をしないようでは駄目であるという事と、社会貢献をするような人材を世に排出しているかという事です。世の中から認められることを願い、人間業でないようなアクロバットだけを吹聴しているだけではどうしようもありません。他人に優越感を抱くような事だけであれば、善人とは言えないし、極真会館の存在意義は失われてしまいます。特に道場生は考えて欲しいのです。この極真会館手塚グループという群れは、世にも珍しく重要な群れであるという自覚です。もうあらゆる国籍や人種を越えてところにあるのです。この代表的群れの中で、道場生は会長を中心に善男善女になっているのです。そして、「家族」というカテゴリーの中で全世界に通用する原則をもって存在しているという事です。
 さて、このような家族という生き方を自ら実践してきているかと問いただすのですが、全世界から認められる基準に立っているかというとまだまだという事です。このように極真会館手塚グループが家族という定義で一致しているのですが、道場の限られた範囲で家族という概念を主張しますか、それとも世間を巻き込んで主張したいですかと、問うならば、間違いなく、世間を巻き込んで家族を主張したいと思うはずです。私達はどんな人種であろうと、そこにある普遍的な原則を貫こうとするのです。それが家族関係という事なのです。これは言古されている言葉ではありますが、当たり前の根本的な原則であると、主張してきたのです。これを実践しないような道場は、閉めてしまった方が良いのです。
 ところで、このような原則を犯すような人がいるとするならば、人種や才能がどうであれ、高段者であったりしても、私達と関係ない事です。それなりに私が審判して追い出します。そのような道場でなければ、未来は明るくないのです。どんなに強かろうが、空手の技術が上手かろうが、関係のない事です。この道場を守り支える組織が家族組織であることを肝に銘じてください。発想の原点は、家族であったらという事です。誰も偉い人はいないのです。ただ親父がいて母親がいて兄弟がいるという関係なのです。これで全てを整理するのです。これが、世間を巻き込んで、発展していく道であると考えるのです。これはオードドックするであり、当たり前の原則だからという事です。だから、当然、他人を利用し、自分の利益だけを得ようとする人々を排除するのです。それより、自分から出ていってしまいます。
 結論として、私達は、何も背伸びするつもりは毛頭ないのです。極真会館手塚グループの根本精神は、家族であり、家族は子供のため、兄弟のため、親のために協力し、守り支えようとするのです。間違っても自分の利益を得ようと人々を排除するようなところでは無いのです。家族を思い描かせるための道場であることは言うまでもありません。そのようにしてこそ、世間との溝は埋まり、社会に良い影響を与えることのできる道場になれると確信しているのです。ジャンバルジャンではないのですが、「持って行け泥棒」という精神かもしれません。それだけに、オーソドックスではあるのですが、人種を越えて全世界に通用する精神であり、実際この精神で世界に礎を築き、今あるのが誇り高き極真会館手塚グループになっているのです。