2015年3月11日(八段語録2349)
稽古一生

 たった一回の稽古であっても、どれほど重要であるのかという事を理解しましょう。一度しかありません。一回の稽古は瞬間ですが、一度しかありません。地球の誕生から今までを考えて見ても、何十億年という長い年月が経っていますが、私達の生きている一生は、ほんの一瞬でしかないという、あまりにも短いわずかな時間にすぎないという事です。何の為に生きているかという事を悟るにも、瞬間であるがゆえに、考える暇もないくらいです。そんな中でも、極真空手だけを続けてきている自分があります。振り返って、稽古がどのような成分で出来ていたのかと物理的に検証しようとすると、汗と涙という成分になります。それが目に見える形のものです。
 さて、稽古に対しては、物理的成分だけで検証しようなどは思ってはいません。そこには、たくさんの思い出としての、目に見えない成分もあります。地球は空気で覆われていますが、稽古は極真精神で覆われているのです。人間は空気を吸って生きていますが、稽古は極真精神で包まれていないと、稽古さえできないのです。スポーツ感覚で稽古をするようなものなら弾き飛ばされてしまいます。稽古内で行き交うのは、極真精神のみという事です。
 ところで、この極真精神を考えて見たいと思うのですが、手塚グループでは、その精神の根源を家庭に置いています。すなわち、稽古は家庭生活に共通する内容として鍛錬するという独特な道場です。そして、多くの稽古は、家庭生活に生かされるのであり、多くの自由を享受するという発想なのです。これは、手塚グループの根本的発想なのです。この発想は、独特というよりは、武士道が家を重んじたと同じ発想という事にもなります。理由は簡単です。家庭は、何の制限もなく、どこでも、どの方向でもいく事ができるという事です。親子の間は自由です。夫婦の間も自由です。ましてや兄弟姉妹は遠慮がありません。もちろん、このような三つの関係は異なりますが、稽古は、この関係を強力に推し進めていく原動力になるのです。考えて見てください。親と関係が悪いとなれば、少なからず悲しい人生と思われるし、夫婦関係を経験できなかったら重要な部分で欠落して、ちょっとみすぼらしく感じるのです。兄弟がいないと、ちょっと欠乏しているようにも思うのです。
 結果的に稽古は、自己鍛錬しながらいい男女に成長し、極真精神で覆われた稽古から、愛情に包まれた家庭生活へと連結されるという勝手な理論を打ち立てているのが、手塚グループという事になります。こんな発想する道場は珍しいのです。決して稽古と家庭を分離していないのです。だから私の言葉から出るのは、「いい人と出会って家庭を持て」と表現するようになるのです。このことを感じられないという人は、どうぞ退会してください。それほどまでに自信を持って提唱しているのです。だから家庭中心として捉えますから、私は、人生を終えたなら、亡くなった両親に会いに行くのだと本気に思っています。この道場での稽古は、人生に通じる全ての法度に通じる道を、究極的に学ぶのです。そんな道場が現に現れているのです。もちろん、その指導の先頭に立っているのが、宮城県本部では、代表師範の私という事です。誰も今は、言ってはくれませんが、私の稽古は格好の良い稽古だと思っています。そして、人生に必要な稽古なのです。